中華佛學研究第8期 (p349-369) (民國93年),臺北:中華佛學研究所,http://www.chibs.edu.tw
Chung-Hwa Buddhist Studies, No. 08, (2004)
Taipei: The Chung-Hwa Institute of Buddhist Studies
ISSN: 1026-969X
市村承秉
北米禅仏教学研究所長
現今二十一世紀初頭は、歴史上確実に「テロリズムと暴力の時代」として人類の歴史に残るにちがいない。同時にまた、「宗教的興奮と原理主義時代」とも、記録を付け加えなければならないかもしれない。一仏教徒として、筆者は二者の根本的要件について関心を持つ。先ず最初、今日一神教的諸宗教が、不満足な国際的政治経済の状況のため、相互に衝突し、激烈な暴力闘争にあけくれている最中、如何にして仏教と云う宗教が、より意味深くその真象を表出できるだろうか、と云う問題と、第二には、世界の何処に於ける仏教教団であれ、それが現今報復手段として継続している暴力沙汰の真っただ中で存続しなければならない時、如何にして我ぼは、仏教的宗教性の完全性を守りぬくことが出きるだろうか、と云う問題の二者である。現行中の対テロリズム戦争が、より高次で広範囲な人類主義運動に今なお連結され得ないでいることは、甚だ嘆かわしい。
当小論の題目は三ヶ月前提出した抄出のものと変っていないが、課題の意味対象を「鎌倉時代に興った日本仏教の伝統」に移行させることにした。何故ならば鎌倉時代に興った浄土真宗は、今日なおすこぶる活性的で、伝道宗教として世界に活躍している。そして、当筆者自身も、同じく同時代に興った道元禅の宗団に属しているのであるから、当小論の課題の意味的対象を、日本仏教の諸宗派に共通な伝統問題に移しても了承され得ると考えた。浄土と禅以外、日蓮宗も同時代に強力な伝道宗教として出現しており、これら代表的な三宗教団はすべて大乗仏教と称されるのであるから、必然的に大乗の空性理念と菩薩道の理想を基盤としている筈である。
当小論においては、この大乗仏教の本質的二者の理念、即ち空性と菩薩道の理念が、
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仏教と云う総体的な宗教の一環となる上記の諸宗派をして、如何なる方途で、且つ何故その伝道宗教としての活力を発揮させることができるのであるかを、検討し開明することが目的である。現今、世界の有力な一神教同士が文化的衝突を起こし、暴力的行為に走っている時、西欧世界に住み、日本仏教に傾倒する我ぼは、いったい誰であっても、自他をふくむ一切の生命が全うされることを希求せずにはおられない。しかし、問題は、多年の将来をかけて、如何なる協力体制によって行動すべきものであろうか、ということである。当小論の参照資料は、後尾に記録するように極めて限られているが、大乗菩薩の誓願と実践行為について、筆者はカントの宗教倫理哲学と、極く限られたものであるが、比較し研究してみた。当小論の主旨に適った比較研究には、西欧世界の宗教と文化中、カントの理性的理念や哲学が、唯一の意味ある比較を可能にするものと考える。
浄土、日蓮、そして道元禅の諸教団は等しく伝道宗教と性格付けられるが、其れは、これらの宗派教団が八百年の間それぞれ特種な形式を通じて、仏教の宗教性を日本人の思考と社会に伝道し教化し続けて来たからである。およぞ伝道活動に成功している宗教は、必ずやその宗団自体を理論的にも実践的にも組織化する中核的宗教性、即ち「安心」を保持すると云う理論は、衛藤即応先生の研究書『道元禅と念仏』から筆者は頂戴した。[1]仏教的周辺環境で言えば、「安心」の名称は、宗派的宗教性乃至宗意にたいする信仰と確信を名指して、「宗教的寂静」乃至「究極的寂静」と意訳出来るものと考えるが、キリスト教でいえば、そのような根本的な信仰対象や実践規範を称して「教会ドグマ」、あるいは「キリスト教教義」と称する。このように既成の標準は、信仰を同なじくする同朋達の協同社会を組織し定着させる基準となる。特に各人の救済が問題となるとき、教団メンバー達は、各ぼの考えや実践が、かれらの遵守すべき教会ドグマ、乃至教義に真実に適っているかどうか、問うことになる。
丁度我ぼが『嘆異抄』で読み取れるように、浄土真宗の初期時代における宗派の指導者達は、宗乗の目指す救済にたいする異端の危険性を充分に承知して居たと思はれる。
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一人の人物の思想や信仰を中心として多数の人ぼが集まる時、この人ぼは中心となる人物の考えや信仰にあやかるのでなければ、予期した宗教的寂静を実現できないという信念によって、自発的にあつまった協同体を構成するはずである。浄土真宗に例をとってみれば、このようにして集合した信者達は、よし彼等の実践が同じ念仏であっても、親鸞上人の教導に拠る保証が不可欠な要件であり、他の教導者に掛け替え出来ないものと、確信されていた筈である。なぜならば、そのような確信に従えばこそ、独立した教団が自然に組織化されることになったからである。若し仮に彼等の実践している念仏唱名が、誰の説く念仏であるのかが問題にならなければ、殊更親鸞上人に従って教団を組織する理由もなければ、また親鸞上人自身が不退転の信心をもって実現した精神的寂静が、得られるべきものでもない。以上が「安心」の理念の中核を構成するものである。
衛藤教授は、道元禅の学者であるが、鎌倉時代の如何なる宗派においても、このような信仰と実践理念を不可欠な要因とする中核的宗教性を各教団に見い出している。浄土真宗の信者達は、如何なる信者にしろ、阿弥陀佛の因位の時に立てた誓願に、各自の信心の焦点を合わせているかどうか、そして又各自の念仏唱名の実践が、如何に純粋な一行念仏となっているかどうか、常に反省を迫まられれたに違い無い。従って、教団の指導者が果たすべき役割は、その教団の開祖における特殊な思想や信仰を明白に見極め、教団の存在根拠となっている開祖の宗教的安心を把握し、与えられた歴史的環境条件に応じて、その教団の精神的力倆を再現することにあると考えるのである。
日蓮宗に於いても、同様に、教団の信仰と実践を中核とする宗教意識が教団を統合している筈である。教団の各信者達にとっては、如何に彼等の信念が久遠実成(本門)の釈尊に焦点を合わせているか、そして又『法華経』の題目讃唱の実践に際し、如何に熱烈な信仰を教典のメッセージに抱いているか、の二者が問題となる。[2]日蓮上人は、二者の理由をもって『法華経』こそ末法時代に最も適した崇高な教典であると確信していた。まず第一に『法華経』は、
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久遠実成の超越的仏陀が、時空を超える永遠の佛法と、史上に出現した釈尊(迹門佛)[3]の成仏によって開顕された現行法との二者が、やがて一体となる時がくることを説示する。そして、この記録的一大事は、地上より上昇し全空を覆うて広がる一大宝塔中に、久遠の本門仏と史上の迹門佛とが、劇的に席を同じくして出現する事象によって描出されるのである(『法華経第十一章』)。
第二には『法華経』は、更にその時、久遠実成の仏陀以来、時空を超えて教化され待機して来た、幾百千と数えきれない多勢の大菩薩達が、地上の割れ目を通って地下より湧出し、空中に躍昇し宝塔を取り巻く状況を描出するのである(『法華経第十六章』)。この劇的な表象は、以降三者の展開を将来に開示する。即ち(1)仏教初期時代における聖骨崇拝の宗教的帰依表現から人間像崇拝の形式に宗教儀礼が転換して行く機会をしめし、(2)時空を超絶する永遠の法が、釈尊の成道した現実の法と一体となり、史上に展開して行くことを示し、そして最後(3)新時代における正法が、数知れない大菩薩達の慈悲行によって、積極的に世界に伝道されて行くと云う、将来の展開を象徴的に予言しているのである。
日蓮上人は、彼が身を置く末法時代、即ち、真実の正法が既に人間界から完全に消失してしまったと、絶望する民衆の心を奮起させるには、本門と云う超越次元と、跡門と云う歴史的次元との存在論的両次元に、一応分別して考えるのが最も効果的であると考え、末法時代の人ぼは現在善人でなくとも、やがてこの教典の教えによって善人となり得ると信じて、教典のメッッセージを人ぼに思い起こさせ、常に生きた教訓となるように誓願を立てたのである。かくして、日蓮上人は教典の題目の五字即ち、『妙ー法ー蓮ー華ー経』を唱念することを、宗教的実践道の根幹とし、あらゆる修行の基点として導出したのである。従って、日蓮上人の中核的安心は、時空を超越する永遠の仏陀にたいする信仰と、『法華経』の中心課題を伝播すべく、題目の唱念に専念することを実践道として創設したのである。
道元禅においても、同様、彼の宗教には、ものを信ずると云う人間の機能や、或いは叉、信の上に確立した実践道が見い出される。例えば、道元の主張する「祇管打坐」の行は、理性により判別した選択枝としての道徳行為とは考えられない。したがって、衛藤教授は、道元禅もまた信仰に根拠をもつ宗教でなければならないと理論ずけたのである。
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一般に禅は伝道宗教と云うよりは、悟りの経験を証得することを強調する宗教であると見なされて来た。しかしながら、道元禅はこの従来の決まり文句的性格を離脱し、そのお蔭で伝道宗教しての歴史を成功裡に遺すことになった。「安心」の語は確かに道元の著述においては、あまり親しみのある言葉ではないが、衛藤教授は、彼自身の著書中、この語彙を道元禅を理解する特種で且つ重要な標準の一つとして取り扱う。筆者の理解する限り、「安心」の語は、道元の禅を他の鎌倉仏教の諸宗派のみならず、じつに信仰に根拠をもつ宗教一般との比較研究を可能にする有効な尺度と考える。
日本浄土教伝統の要(かなめ)となった『選択集』を書きあげた著者は、浄土宗の開祖法然上人であった。この書の全称は『選択本願念仏集』と云い、第十二世紀の後半に撰述されたものであるが、親鸞上人の真宗にとっても根本的な教義はすべてこの書に含まれ、称名念仏こそ弥陀の本願の真の実践行であると云う、深い宗教意識の内面に介在する宗教性を理論ずけているものと信じられて来た。
法然上人は、この『選択集』で、成仏の為に回向すべき一切の自力本来の功徳行を放擲し、その代わり、弥陀の本願を徹底的に信じ、佛名を唱念する純一行を採択した。阿弥陀信仰の宗教的特徴は、阿弥陀佛が因位の時、法蔵菩薩として確立した誓願に内在するとされる救済能力に、徹底的な信頼を懸けて生きることである。この絶対他力の宗教的特徴は、仏教の実践道の本質に徹底的な変化を要求することになる。聖道門で支持される功徳行、例えば、造寺、写経、教典の読誦、あるいは又、阿弥陀と浄土とを対象として心を専注する等の修行は、皆自力本来の目的的な実践行であるから、若しこれらの実践行が念仏唱名同様、浄土に往生させるのであれば、他力念仏の実践と自力得脱の徳行実践との間に、はたして如何なる相違があるであろうか?明らかに教義的変更が不可欠であり、教義の変更を通して、唱名念仏の実践行が只ひとり督信者をして浄土に往生せしめる、という信仰を確固たるものにする。
『大無量寿経』に揚げられる総数四十八願中(これらは弘願と称せられる)[4]、親鸞上人は第十八、十九、そして二十の三種の誓願を選びとり、それらが本願の中核をなすものと考えた。
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[5]しかしながら第十九と第二十の誓願は、浄土往生と云う救済にかんする限り準備行を代表するもので、第十八願こそ救済を実現させるものと定義した。第二十願で敷衍される念仏の実践は、自力に根ざした実践行と、[6]阿弥陀の本願としての他力に拠る念仏行の両者を混合したものであり、完全無欠な念仏の純粋行ではない。したがって、絶対他力の効果に疑惑を持つ自力本意の混入を除くのが、第十九願である。[7]第十九願は、自己本来の意志によって努力する、一切の聖道門的修行を放棄させる意味を持っていたが、この第十九願は、『観無量寿経』において「要門」と命名され、行者をして観佛三昧、即ち、阿弥陀佛とその極楽浄土の観念三昧に入定せしめ(之は定善と云われる)、出定する時は、即ち、称名の念仏行(散善と云われる)に専注せしめるものである。しかしながら、「定善」も「散善」も、ともに自力本意の要素を幾分なり含有していると考えられることになり、この第十九願の内容もさらに放擲されなければならないことになる。
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阿弥陀の本願は、かくして三種の誓願に分別されるごとく、三者のステップによって純粋な念仏行に到達されることになるが、これが「三願転入」と呼ばれる真宗独特の教義である。元来親鸞上人の創説であるが、後日真宗のリーダーによってかく命名されたと云う。何故この真宗の教義が重要であるかと云えば、真宗以外の他宗派の教義とも共通に、仏教的弁証法をその中核に擁していることである。例えば、衛藤教授はこの真宗教義と同様な思想的展開を道元禅の宗教性に見い出している。教授の遺稿である『正法眼蔵序説』では、道元と親鸞上人が、思想上明白に呼応する弁証法的思弁を表出していることを以下のごとく指摘する。
浄土真宗における親鸞上人の三願転入の説は、信心為本[8]の聖人の念仏の意義を顕揚するのであるが、今、「この教義は」道元禅師の佛法の三段の展開に等しく、まさしく正伝の佛法の本義を明らかにするものとして、現成公案の劈頭の一節は、深くかつ広く参究しなければならないと思う。[9]
『現成公案』[10]における最初の構文は三段階の弁証過程を以下のごとく提示する。
身是菩提樹、心如明鏡台、時時勤払拭、勿使惹塵埃。[11] 菩提本無樹、明鏡亦非台、本来無一物、何処惹塵埃。[12]
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先ず最初、禅の宗教意識は肯定と否定の立場の対立に分別される。これらの対立者は中国において、歴史上対立したに北宗禅と南宗禅に比肩され、そして第三の立場が、これら二者を包含しながら、かつそれらを超越する立場で、それが両者より高次元の中道を成立させるとものとする。衛藤教授は、三願転入の「弁証法的過程」を禅宗の歴史的発展過程にも適用できる面を持っていると理解した。北宗禅と南宗禅との対立は、それぞれの開祖神秀と慧能が彼等の異なった宗教的理解を二者の詩文で表現したと一般に信じられている。最初、神秀が禅を漸教とする立場から、北宗禅の宗意を披瀝して以下のごとくいう。
大乗仏教における宗教的完成の過程において、まず第一に重要なことは、菩提心を発起すること、即ち、菩提とは最上にして、それ以上の価値を見ない、窮極の人生目的であるが、この菩提を希求する無上心を発起することであるとする。一般に菩薩の心とは知性と意志とが特別に組み合わされたものと言えるが、菩提心という宗教心と人間一般に理性として活動する慮知心とは、相互に衝突しないものと仏教では理解されている。
菩薩の誓願は、その表現においてすべて共通しているが、特に自己犠牲の本性が、菩提を希求する心に深く埋め込まれていることを表示する。道元によれば、誓願とは「自未得度先度他の心」であるとする。[13]即ち、他を先ず先に涅槃に渡す心であると云うが、それでは、菩提を求める心を発起するということは、一体何を意味するのであろうか? 道元は、菩提心の発起は宗教生活に乗り出すことであり、また同時に、宗教的窮極の実現されることであるとする。彼の撰述した『正法眼蔵第七十発菩提心』の巻には、菩提心にかんする道元の厳密な定義をみるのであるが、菩提心は認識や、思考や、判断をくだす普通の経験心に依って発起されるものと云う。しかし、菩提心は道理に従ふ経験的な慮知心とは同一ではなく、慮智心とは異なるのではあるが、しかもこの慮知心なしには決して発起しえないと道元は主張するのである。[14]
それでは、宗教心と普通の慮知心とが何故相互に衝突もおこさず、相互に矛盾しない理由について説明されねばならないのであるが、それを道元は弁証法的表現をもって次のごとく説明する。
この心もとよりあるにあらず、いまあらたに炎起するにあらず、一にあらず、多にあらず、自然に非ず、わが身の中に有るに非ず、我が身は心の中にあるにあらず、
この心は法界に周辺せるにあらず、前にあらず、後にあらず、あるにあらず、なきに非ず、自生にあらず、他生にあらず、共性に非ず、無因性にあらず、しかあれども感応道交するところに、発菩提心するなり。[15]
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この観音菩薩の誓願と阿弥陀佛が因位の時法蔵菩薩として訣定した誓願とが極めて類似している。特に、自己犠牲の本質においては、その表現が同一であることに注意を喚起したい。観音菩薩は広く世間の声に耳を傾け、苦悩や悲嘆に喘ぐ一切の人ぼの切実な嘆願に常に敏感に対応する慈愛の菩薩として、大乗仏教圏では二千年に亘り信仰の対象として礼拝されて来た。「観音普門品」は、いかなる生類であれ、観音の名を一心不乱に呼び助けを求める時、苦痛に喘ぐ彼等をその苦境より救済せしめると教える。菩薩は一切の苦悩の叫びを直ちに探知する超越的な機能を有し、時を待つことなく直ちに一切の救済に赴くと云う。浄土に往生すべく崇高な阿弥陀佛に願いをかけて、救済の秘境に生まれんとして祈る場合とは極めてことなり、観音菩薩に救いを求める衆生は、現実の人間的危難に直面し、その苦境からの救済をねがっているのであるから、急遽看護と救援を必要としている衆生である。
此の自己本来に動機をもつ観音菩薩の誓願をさらに理解するため、ここで『悲華経』[17]の一節を紹介し、人間の世間に活用されるこの誓願の本質について、照明を当ててみたい。この経典は浄土文学系に属するものの一と見られているが、此の経典の趣旨は、釈尊の出生が不完全な人間界であったこと、高尚な佛国土が数知れず多ぼあるにも拘わらず、釈尊はその生誕の地を此の腐敗した人間の世俗世界に選ばれたこと、これは人類にとって特別な因縁をもつ事件であったと強調するのでる。上記の経典の中心となる伝説的説話は重要ではないが、筆者としては、一王子が菩薩道を歩もうと決意した際の誓願の性質について注意を喚起したい。
この説話によれば、かって或る時、世界に君臨した「無諍念王」と呼ばれる一転輪聖王が、[18]出家して佛道に入り、遂には成仏して阿弥陀佛となるのであるが、
願はくは我菩薩道を行ずる時、若し衆生諸苦悩恐怖等を受ける事ありて、正法を退失し大暗処に堕ち、憂愁孤窮より依所無く避舎無く、救護有ることなけん、若し其の為に我が天耳の聞く所、及び天眼の見る所、是の衆生等若し苦悩を免れんことを得ざれば、我(誓って)阿耨多羅三藐三菩提を成ぜず。[19]
p. 360
この聖王の後継者であった「不目旬」と云う最年長の王子も又菩薩と変身すべく誓願をたてることになる。この王子の出家入道を資助した仏陀は此の王子の法名を観世音とした。この菩薩の誓願の本質は、自己犠牲という第一条件において法蔵菩薩の誓願と同一不異である。上記の経典は、将来阿弥陀佛と成るべきこの観世音菩薩の誓願を次ぎのごとく披瀝する。
カントが本体と現象の二者に分別した形而上学的カテゴリーは、西欧の十九世紀及び二十世紀の一部分を通して、思想家達の頭脳を支配したことを思い出す。哲学思想の世界においては、当時この形而上学的分析、即ち、超越的な「もの自体」の範疇と、人間の知性における先験的機能の範疇とに分別して、経験的認識と科学的知識の限界を批判的に検証したことは、実にコペルニクス的転換をなすもので、大変な功績であった。カントは形而上学の役割を「究極的実在の発見にあるのでばなく、実在対象や本体論的要素の存在の知性的並びに科学的認識が、はたして真に妥当性を有するかどうかを、批判的に見極めること」
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にあると再定義した。(「」は筆者の挿入)。
ギリシャ哲学においては、知識の対象は思惟と関係なく独立して存在すると考えられていた。そして知識の成立過程は、完全にその知識の対象の如何に従うものと了解されていたのである。インド哲学の伝統に於ても、同様、我ぼの認識の妥当性は、認識される外界が言語的命題に依って如何に厳密に叙述されるかどうか、に関連していると云う先入観に支配されていた。その反対に、仏教の哲学者達は、ヒンドウー教哲学の立場とは正反対で、矛盾なく常に人間の経験的知識の対象となる外界は、全く存在していないと主張してきたのである。カント以降の哲学者達は、一般に思惟の対象は思惟それ自身の産物でしかない、とする理論に驚くことが無くなり、知識とは、もはや外界の事物の純然たる同一模型ではなく、先験的知性の普遍様式に基ずく主観的解釈に過ぎないと考えるようになった。
此の問題に対する仏教思想の立場は、むしろカント的な理性批判の理論に近い。その昔、釈尊が形而上学的窮極の原理として『奥儀書』に表現されたブラフマン、或は叉はアートマンの存在を否定したのであるが、それ以来、仏教徒の哲学的オリエンテーション(傾向態度)は常に認識論的であった。そしてこの認識論的なオリエンテーションがカントの形而上学的再定義とマッチすることになったのである。インド中世の仏教哲学は、常に人間の思惟と知覚は、認識の主観者と認識対象との二者分裂関係に依存すると主張してきたのであるが、我ぼの言語的命題(主語+述語)が、これら二者の関係について如何なる命題を提示しても、それが言語構造によるかぎり、既に命題の提示する対象は実在していないと主張して来たことになる。我ぼの普通経験ては、外界がいかにも存在しているように見えるが、事実は、それら外界の事象は絶対的な意味で(paramāthatas)そのように存在しているのではなく、結局の所、人間の認識は主観的解釈(parikalpita)以外の何ものでもないとする、カント的思惟と合致するのである。
カントは、キリスト教の神の存在を証明する為の極めて説得力のある議論を否定し、壊滅させたことで知られている。彼は、客観的証拠もなく概念叉は観念自体のみから、神の存在を証明せんとする議論に、徹底的な反論を駆使した。すなわち、宇宙創成論(例えば現代の科学的仮定の「ビッグ・バング」説)において、宇宙の中で偶発的に起こるあらゆる事象の第一原因が、絶対的に不可欠な条件として追求される時、この第一原因と云う前提が証拠もなく、
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当然のごとく仮定されている論理的誤謬を摘出して提示することにある。[20]しかしながら、カントは、神の存在を否定する命題も、又同様に我ぼの経験知識の限界をこえるものであるから、究極的には否定論も証明できない事を提示している。かくして、我ぼ人間は神の存在否定を証明することができないのは、その存在の肯定を証明出来ないのと同様であるが、このカントの主張は仏教の結論と同一となるのである。
仏陀も仏陀の弟子達も、二者の相対立する定説、即ち、永遠主義(śāśvata-vāda)と虚無主義(Uccheda-vāda)を同様に回避したと伝えられている。有名なインドの哲学者、T. R. V. ムールテイ教授は十四個の形而上学的質問(avyākṛta-vasutūni)を釈尊は沈黙をもって応えたことを取り上げ、沈黙による応答は、カントが二者の対立する哲学的問題(antinomy)を解消するように努めたことと類似していると解説した。[21]即ち、仏陀の解決は、二者の相互に矛盾する立場を高次元の中道に乗り越えることにあったのである。然し、理性が二者の対立する立場を同時に許し得ない哲学的道徳律と、其の両者を超越した中道において許容する非キリスト教的仏教の宗教性とのあいだには、或種の食い違いがある筈である。
一方カントの哲学は高度に進歩した近代の哲学的組織であり、一方仏教哲学は古代乃至中世に展開した神の存在を必要としない哲学であると云う相違にも拘わらず、カントの宗教及び倫理哲学は、仏教の宗教性の研究にとって重要な比較資料となる。一般に、行為の意志的決定は理論的目的と実践的行動との二者に連結しているから、人間の行為決定は、仮定的命令法に依存している。即ち、人間の行為は、「もしこの行為をなせば、其の結果はかく、かくとなるに違い無い」という仮定判断によって、目的とそれを達成する方法との統合化の命令を受けるのである。しかし、カントは、このような仮定判断命令に起因する行為を道徳的行為の資格から削除してしまった。彼はキリスト教神学の認める道徳法さへ、それこそ徹底的な努力を掛けて拒絶してしまったことは、よく知られている事実である。何故彼は神学的道徳律を承認しなかったかと云えば、
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神学的に決定された倫理は、あらゆる種類の他律条件、例えば、神聖な神意に迎合する行為であったり、効用性と云う利益や、報酬と刑罰とを期待する動機等が混入してくるからである。しかしながら、彼は義務の概念を導入して、キリスト教の絶対命令にかかわる先験的信仰意欲を、擁護することに努めた。義務の概念を道徳行為の本質的な性質として、カントは、宗教を道徳的行為を推進する先験的信仰意欲に外ならないとして紹介するわけである。義務的概念を道徳的行為の本質として認め、カントは、義務行為こそ道徳的行為の本質であるとして、宗教を義務行為を遂行させる先験的な信仰意欲であると紹介するのである。
菩薩道に邁進する菩薩自身に関する限り、自己犠牲の意欲を内含する彼の誓願は、如何なる行為であれ、仮定的命令行為や人間の自然的衝動による行為とは、完全に異なる独立した行為であるが、菩薩の誓願は、カント的思惟による道徳的命令とは異なった性格を有していることが明白である。(1)先ず第一に菩薩の行為は、自己犠牲という誓願の実現のためのみのものではない。彼の行為は必然的に且つ普遍的に、先ず自分以外の生類の利益にならなければならぬことが第一条件である。此の理由で、菩薩は、その行為の完遂の為かならず善功方便と不慮や臨時の際における智慧を充分にそなえていなければ成らないのである。(2)第二には、菩薩の行為は絶対的断言命令とは異なることである。カントによれば、もし意志の決定による行為が、その行為に関する如何なる結果をも予期することなく遂行され、且つその行為其れ自体に価値があるときにのみ、それは真に道徳行為となると定義するが、菩薩の行為においては、いかなる行為に従事していようとも、彼以外、他の生類の為に救済が成功していなければならない。さらに菩薩は、彼の理解する空性の理念と慈悲の徳性による指導以外、如何なる命令者からも完全に自由な遂行者である。
カントの考える宗教は理性に準じたもので、明らかに自然宗教とは異なり、道徳的神学的宗教と言えものであろう。何故ならば、カントにとって、宗教とは神の命令として、道徳法を概念化するところに依存しているからである。[22]この観点から、彼はキリスト教教義の基本的な部分を純粋に道徳的宗教と理解したものであろう。カントは、如何にして絶対的命令に匹敵する行為の価値にしたがうことができるかの質問について、
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二者の段階を付けて説明する。先ず彼は義務の観念を紹介し、この義務の意識が常に絶対命令の基盤となっていると説明する。即ち、純粋に義務の観念に準じた意志行為は道徳的であると云うのであるが、それでは、義務に準じて行為するとは一体どう云うことであろうか?カントは絶対命令は行為を命令する格言乃至金言に従うことである。即ち、彼は、「一個の格言に依って行為する時、あたかも、汝の意志がその格言をして普遍的な自然法となすがごとくに、行為せよ。」と教導するのである。[23]しかし、このような行為は人間の幸福の実質に深刻な問題を引き起こすことになる。何故かと云えば、人間性は二重層をなしているからである。カントは、純粋理性による行為と、自然的刺激の衝動による行為とを明確に分別することを要求するが、又同時に人間の幸福は後者のみに属し、前者には属しないとする。
此の問題を次のような議論に託して表現することができる。俗世間の目的は幸福であり、倫理的目的は徳性である。しかしこれら二者は、目的に対する方法のごとく両者を相互に支えることは出来ない。幸福を求めることは行為をして徳性の向上にはならないし、また徳性は人間を幸福ならしめることをゆるさないのみならず、実際に幸福にすることがない。これら二者の間には原因結果の関係が成立しないし、また倫理的にも目的的関係が生じることを許さない。然し、人間は俗世間並びに倫理的世界の両者に属するのであるから、最高善といわれる境涯は、徳性と幸福との適当な統合にあることになる。[24]カントの道徳思想には、これら二者を適当に組み合わせることは、実に危険極まりないことである。更に絶対命令と仮定命令の両者を折衷することは、相互対立や矛盾対立を無限に併発するのであるから、実に不可能なことである。したがって、筆者としては、このような矛盾対立を統合し調和させることのできるのは、空性の理解に基ずく大乗菩薩の能力のみであると考えるのである。
浄土真宗の宗教性の存続を考慮する時、後代出世してくる真宗の信者達は勿論、国際社会に点在する真宗教団のメンバー達にとっても、阿弥陀佛の因位における誓願と、この誓願にたいする純粋な信仰とを他に伝達することが如何に重大であるか、
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筆者はほぼ想像できるのである。筆者自身の属する道元禅においても、真宗から比較すれば、時既に遅しとみられるのであるが、宗教性の相伝について同様な問題が、ほぼ完全に認識されてきていると考える。道元禅の宗意としての安心には、歴史上二者の基準がある。一には、面授の法則で、この人格的認証の基準は、道元自身が中国で伝法の師と初対面の際確立したものである。[25]二には、得法の法則で、この経験的了得は、道元が一夜坐禅に専念中身心脱落の経験によって実証したことにある。
道元が日本に帰還した以降は、最初の基準に重点を置いていたごとく、第二の基準には其れ程同様な比重を置いていなかった様子にみられる。斯くして、道元の宗教性を決着すべき二者の基準が問題となって、後世公式な論争に発展したのである。宗門を二者の派閥に分割してしまった程であるが、一分派は人格的認証、即ち、面授の法則、に重点を置き、[26]第二分派は実証的経験、即ち、得法の法則、に重点を置いた。相互に問題となっていることは、如何にして我ぼは道元禅の宗教性を他に伝達できるかと云う問題である。悟っているかいないかに拘わらず、師匠と弟子という二者相互の経験界における信頼(権乗)を基準にして、法の伝達を面授の認証によって成立させることが出来るか、或はまた、悟りと云う実証経験を獲得(実乗)した二者の人格の面授を通してのみ、法の伝達を成立させるべきものであるか、二者いずれかの決着をつけねばならなかったのである。何故かと云えば、後者を主張した宗門人にとっては、未だ悟りを得ぬ二人が形式的な面授の儀式によって、即ち臭面をつき会わせることによって、超経験的な伝法を成立させ得るとは信じられなかったからである。
釈尊以来、法の伝達あるいは法の相続を、比喩的に釈尊自身の内観の焔に託して、時空を超え世代から世代に、それが間隙なく相伝されるごとくに理解されてきた。しかし伝法相続の法脈は元来信仰に基ずくもので、上記の論争にもかかわらず、実際には超歴史的なことである。何故かと云えば、伝法乃至法の相続は、本証妙修と云われる祇管打坐以外、これと云う実体的に触知できる伝承の対象が無いからである。真に伝達されるべきものは、宗意の安心であって、それは本来的な菩提の実証と実証後の妙修としての坐禅の二者とに完全な落ち着きを得ているかどうかを伝承する以外ないのである。上述の宗派的論争は、
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従って、この宗門的安心を、二者の信頼感に基ずく面授による認証によるものか、それとも各自の経験的実証に基ずく認証に拠るものか、と云う問題につきるのである。
哲学的に考えて、面授とは二者の人格の間において、例えば師匠と弟子との二者が、人間的交渉を経て、両者が一者に統一されることであるが、これは一個の灯火が直接他の一個に接触し、その灯火の輝きに影響することに例えられてきた。しかし道元は「正伝は自己より自己に正伝するがゆえに、正伝のなかに自己あるなり」と云い、[27]叉この同一問題について、道元より第四祖後代になる塋山は、道元の理解と同一の理解をやや異なった表現で提示している。即ち、「かって一法の人にあたふるなく、一法の人にうくるなく、これを喚んで正法とす」[28]と喝破した。上記の二者の表現は明らかに弁証法的次元を内含し、宗教生命が不断に進展していくことを具現している。究極的には、従って人格的認証の事実も自己より自己にのみ進展するか、あるいはまた何処からも受け取られず、また何処へも伝達されない、と云った表現になってくる。
この小論中、筆者の主張点、即ち、何故空性の理念が道元の信仰に根ざす人格的認証と佛法の超歴史的伝達の底辺に介在するかにつき、詳細な論証をのべるスペースを持たないが、インド史世紀50より150年頃出現した、仏教哲学の代表者龍樹による空性の理念の弁証を、一部紹介することによって、[29]小論の目的を明確にしたい。一般に、人間の知覚は、器官の機能とその対象とに分別され、
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其の両者が同一時点において交錯することによって生ずることは、光と闇の相違する両者が一時空において相互に交錯して、照明が成立するのと同様である。光と闇は概念的に相互に対立するにもかかわらず、若し何等かの対象が照出される時、龍樹は光と闇の両者が、相互に対立しながら、同時に一カ所に合一して存在していなければ成らなくなると分析する。[30]これば我ぼの経験的認識をこえるものである。しかし、更に他面より見れば、闇を照破する事は闇が否定されて光と同一化することになり、いささか馬鹿げているが、此の統一化した光のみと云う条件が第三十七頌に表現されるが、[31]そこでは闇もなければ、また光も何等他と交錯することがないのである。概念上対立する二者、例えば、光と闇の二者が、同一時空に合重すると仮定されるとき、我ぼの論理的並びに言語的慣習の底辺に介在する弁証法的環境条件(conntext)が突如露呈されることになる。[32]このような視覚機能と視覚対象との交錯は、いかなる感覚作用にとっても先験的条件(a-priori condition)であるから、この弁証法的環境条件には詭弁や誤魔化しはない。
此の弁証法的環境条件は、我ぼの言語的表現、即ち、「光が闇を破る」と云う表現が、相互に対立する両者が同一箇所に交錯することを前提としているが、事実はその直接対象として何物をも保有していないことである。翻って、師匠と弟子が人格的認証の基準として、伝法に関する二重層の過程に比肩してみよう。その一過程は、師匠が師匠のがわより弟子と合一せんとして、弟子を認証するとき弟子は完全に師匠に合一することになり、また他の一過程では、弟子が師匠と合一せんとして、師匠の認証を通して、師匠が弟子に統一されることを想定できる。人格的認証の二重層的過程における重要なポイントは、一般に言語現象の構造を弁証法的に批判する時、
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師匠並びに弟子のいずれも、はたまた法の伝承あるいは相続といった何ものも対象物として、その存在を検証出来ないことである。
結論に至る最後の二章では、菩薩の空性理念にかんする智慧が、菩薩の起動する一切の行為に行き渡っていることと、そして菩薩の誓願、特に自己犠牲の誓願を、再度強調することによって、如何なる理由で、各宗派の宗教性を高揚することができるか論証することにあった。事実、鎌倉宗派教団は、伝道宗教として菩薩の誓願に信念をもっていたが、この誓願の底辺には空性の智が作用していたのである。しかしながら振り返ってみると、久遠実成の仏陀も、『法華経』に讃えられる大菩薩達の伝道活動も、我ぼにはこれと云う実体的に触知できる対象がない。我ぼには崇高な阿弥陀佛や、或は又因位の時法蔵菩薩として決意した本来の誓願について、実体的に触知できる対象がない。さらに我ぼと同じ歴史上に出現し、菩提を獲得した釈尊や、かつまた、人類に本質的な宗教性に目覚め、菩薩道に尽力した歴代の祖師達について、実体的に触知できる対象がない。斯くして、我ぼは、上記一切の総べては皆想像された概念にすぎないのか、それとも無根拠な幻影にすぎないのか、質問してみなければならない。然し、我ぼ仏教徒は、これらの事象が、論理的乃至言語的な世俗的機構で築きあげられたものである限り、これらの一切は、空性の智を基盤として各ぼの意味乃至責任を確認出来るものと主張したい。
今日世界をあげて、宗教、文化、政治、そして経済の諸分野が、絶望的に縺れ合って、暴力をも交えて自己本位の闘争をくりかえしている。実に困難な時代と云わなければ成らない。にもかかわらず、我ぼ仏教徒は四聖諦の道理を佛陀の宗教性として世界に伝達しなければならない義務を決して放擲出来ないと思う。四聖諦の道理は、初期仏教の伝統である東南アジアの上座仏教の「無我」の道理に等しい。そして叉、北方乃至極東アジアの大乗仏教における空性の教義にも等しい。特筆すべきことは、菩薩の四句誓願は四聖諦の焼き直しであったことである。[33]
最初、筆者は、日本仏教の諸宗派に属している我ぼに共通な問題、即ち、安心乃至宗派の中核的宗教性を、「信仰と実践にかんする究極的な落ち着き」と定義することから開始した。従って、筆者は諸宗派の仏教徒が菩薩像を象徴して旗頭に描き、それを中心として参集することが出来るものと思う。
1.The Classification ofBuddhism(BukkyōKyōhan;『仏教教判論』)in India, China, and Japan; Written by Bruno Petzold in collaborationwith Prof. Dr. Shinshō Hanayama and Prof. Daitō Shimaji; Edited by Shohei Ichimura(Manuscripts Posthumously Compiled by Arnulf and LieselPetzold; Published by Harrassowitz Verlag, 1995.
2.Zen Master Dōgen asFounding Patriarch(「宗祖しての道元禅師」): Author: Prof. Etō Sokuō(Originally written in Japanese and published byIwanami Shoten as its monograph series, Tokyo, 1944); Translator: Shohei Ichimura, Director of NorthAmerican Institute of Zen and Buddhist Studies, published in Tokyo, 2000.
3.History of Philosophy withespecial reference to the Formation and Development of its Problems andConceptions, Author: Dr. W. Windelband; translator: James H. Tufts Ph.D,New York: the Macmillan Company, 1955.
今日,世界的回教文化和猶太教及基督教等的一神教文化彼此對立,並藉由暴力破壞不斷抗爭之際,即便是對神的存在與否這項爭議不太在意的佛教徒,也決不能隔岸觀火,抱持事不關己的態度。詳究其原因,乃因上述三種宗教當中的任何一者,只要有其中任何一者,走極端、基本教義派抬頭,或誤信自己的優越性與絕對性,就會對觀念上不以一神的存在為必要條件的佛教徒,進行迫害和排斥的這種環境,正如歷史上,不論在中世紀或近代層出不窮一般,誰也不敢保證將來不會發生。更嚴重的,一神教彼此一旦基本教義派最後導致主張強調突顯自己的話,與一神教文化結合為一體的自由主義的主張,和與無神教文化密切關聯的平等主義的主張,二者之間的抗爭的異質性差異極大的結果,未來也不一定不會發生。爲何如此說呢?因為相對於後者極端地站在人道主義的立場,只能無奈地立足於理性和智性一邊,前者則不加批判(反省、檢討)地走向固執盲俗的偏鋒,動輒寧可排除智性。現代,人類的智性看來似乎很明顯地在智性的基礎上有必要把某種比智性層次更高的東西當成助緣。
本論文是處在現今的世界,在日本的鎌倉時代諸宗派的底層,基本的大乘佛教的空性理念及菩薩道的理念中,去追求我們大乘佛教徒所共有的宗教性及實踐性的究竟目標,並藉由再確認來協助人道主義者的理想,更進一步要求一神教的基本教義派的反省。
關鍵詞:1.彌陀誓願 2.空性理念 3.安心 4.親鸞 5.日蓮 6.道元
(本文提要由楊德輝翻譯)
[1] Prof. Etō'smonograph, Dōgen Zen and Nenbutsu,published in 1954 by an Buddhist association in the Toyama prefecture.
[2] Nichiren Shōnin (1222-1282) appeared in theregion of Kwantō (Eastern Japan) during the same Kamakura period, when Shinranand Dōgen were also active. Although Nichiren Shōnin claimed that he restoredthe teaching of the Lotus Sūtra tothe state of Japan as the doctrine taught respectively by Dengyō, Chih-i, andultimately Śākyamuni, we ought to recognize that his intent was actualized ineffect in establishing a new Buddhist school for his eventual goal.
[3] 「本門」and「跡門」
[4] 『大無量寿経』(2 fasc.); tr. by Kō-sō-gai (Saṇghavarman).Taishō. 12 (No. 320), 265 ff.
[5] 「設我得佛、十方衆生至心信楽、乃至十念、若不生者、不取正覚、唯除五逆誹謗正法」
(The18th Vow): "Even when I am qualified to receive Buddhahood, if peoples of tenregions, with sincere mind engaged as many as ten times in the mentalconcentration on Buddha, and yet, in exclusion of those who committed fivekinds of horrid crimes, if they failed to be born in my realm, I will not takethe supreme enlightenment to myself."
[6] 「設我得佛、十方衆生聞我名号係念我国殖諸德本、至心欲生我国、不果遂者、不取正覚」
(The20th Vow): "Even when I am qualified to receive Buddhahood, if peoples often regions heard my name, adhere their mind toward my country, return theirgood merit, with sincere mind, wish to be reborn in my country, and yet, ifthey could not realize it after all, I will not take the supreme enlightenmentto myself."
[7] 「設我得佛、十方衆生発菩提心修諸功德、至心発願欲生我国、臨寿終時、仮令不与大衆囲遶現其人前者、不取正覚」
(The19th Vow): "Even when I am qualified to receive Buddhahood, if peoples often regions raise their thought of enlightenment, carry out Bodhisattvapractices, with their utmost sincerity, wishing to be born in my country, andyet, if at the moment of his death, my host members did not appear before himto welcome, I will not take the supreme enlightenment to myself."
[8] 「信心為本の念佛」: The Shin-shū holds that whether one is to be born in the Purelandis not determined by the power of calling Amida's name (称名念仏), butby the mind that believes in the power of Amida (信心為本).
[9] Etō:『正法眼蔵序説』: p. 14. "TheJōdo Shin school's doctrine of "San-gan Ten-nyū" was theorized bySaint Shinran essentially for the sake of enhancing the meaning of his Nenbutsuthat was developed on the basis of belief in the power of Amida's Vow (shin-jin-i-hon).9 Now, inparallel, it is possible to say that the development of Dōgen Zenji'sthree-fold stages of Buddha-dharma does clarify the fundamental meaning of Zenspirituality. I think, therefore, the initial paragraph of the Genjō Kōan ought to be closely studiedto the utmost depth as well as widest perspective."
[10] 『正法眼藏第三、現成公案』An alternative translation of the fascicle is: “All Kōan Realizationas it really is.” 日本語文︰「諸法の佛法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり死あり、諸佛あり、眾生あり。萬法ともにわれにあらざる時節、まどひなく、さとりなく諸佛なく、生なく滅なく。佛道もとより豐儉より跳出せるゆえに、生滅有り、迷悟あり、生佛あり。」
[11] Translation: "Body is an enlightenmenttree, and Mind is like the support of a transparent mirror. Try to clean themirror's support as often as possible. Never let dust particles stay on thesupport."
[12] Translation: "There is no enlightenmenttree from the beginning, neither is the support of the mirror. There is nothingfrom the beginning. Where could dust particles stay?"
[13] "A vow of resolution committed toup-holding mid-stream, taking no salvation of his own, till every other beingto have crossed a river to safety."
[14] Hotsu-bodai-shin(「発菩提心」SG 70): "Arousingthe Mind of Seeking Enlightenment";「此の慮知心にあらざれば、菩提心をおこすことあたわず、この慮知心を菩提心とするにはあらず、この慮知心をもて、菩提心をおこすなり。」(Shōbō Genzō Hotsu-Bodai-shin Fasc. 70,『正法眼蔵発菩提心第七十巻』)
[15] Translation: "This Bodhi-mind neitherexists originally, nor arises newly; it is neither singular, nor plural; itneither exists independently, nor exists inherently in one's body; one's bodydoes not exist within this mind, and neither does this mind permeate the entireuniverse (dharma-dhātu); it existsneither before, nor after; it neither exists, nor is it non-existent; it doesnot arise of its own, does not arise due to another, does not arise due toconjunction of both itself and another, and does not arise without a cause. Yetit should arise when communication is accomplished between one mind andanother."
「感応道交」: '感' means "human response receptive to thetranscendent power" (加持力) [of Budha andBodhisattva]; '応' means "transcendent power manifesting inresponse to human prayer. Thus,「感応道交」means an accomplishmentof communication between human reasoning mind and transcendent spiritual mind.
[16] Kuan-shih-yinPu-sa (観世音菩薩) was anequivalent to Avalokitasvara in Classical India and later on, was changed tothe name of Avalokiteśvara (Kuan-tsú-tsai-pu-sa, 観自在菩薩) who was later on often confused and sometimes identified with theHindu deity Maheśvara (Śiva). This male figure was regarded by Prof. LokeshChandra a metamorphosis of Brahmā. Even after becoming intermixed with thedivinity of Maheśvara, it remained a male figure throughout the millenniawherever the image was transmitted within India and South and Southeast Asia.In China, however, despite the fact that some of the Indian forms ofAvalokiteśvara were available to Buddhist worshippers, Chinese Buddhistsdeveloped their own image as an effeminate figure during the T'ang dynasty inaccordance with their own cultural and aesthetic taste. This feminineBodhisattva or, more correctly, sexually neutral figure, ascertains the factthat the essential nature of the Chinese Kuan-yin was and has been based on thespirituality of Prajñāpāramitā and personified the epithet of activist Love andCompassion. How and why the Chinese Kuan-yin figure is trans-culturallyseparated from Hindu culture and transformed to be an expression of Chinese ownculture is a complex and enigmatic issue, because the historical evidence showsthat the Buddhist cult of Avalokiteśvara within India was rather short-livedand quickly reclaimed as Hindu cult, whereas the same cult is still active inChina and East Asia.
[17] The Sūtraon the White Lotus of Love and Compassion, Karuṇā-puṇḍarika-nāma-mahāyāna-sūtra(『大乗悲分陀利経』or『悲華経』10 fasc.), Taishō. 3,(No. 157), p. 167-, translated byDharmakṣema(曇無讖(414-426))。
[18] Araṇemya or "Discord-free Mind" by name.
[19] 「願我行菩薩道時、若有衆生受諸苦悩恐怖等事。退失正法堕大暗処、憂愁孤窮無有救護無依無舎、若其為我天耳所聞天眼所見、是衆生等若不得免斯苦悩者、我不成阿耨多羅三藐三菩提」Ibid. (fasc. 3): Taishō. 3, p. 185c;Translation: "May I resolve my mind for the Bodhisattva career. Shouldanyone be subjected to suffering, fear and so forth, thereby being forced toabandon the right Dharma, thus to fall into darkness and lose all reliance andprotection, yet should he uphold my name in his mind, chant my name, then shallit be heard by my transcendent faculty of audition and vision, and should heyet remain unliberated from suffering, fear and so forth, shall I not take thesupreme enlightenment unto myself."
[20] Definition of "postulation of thebeginning, begging the question": a logical fallacy in which a premise isassumed to be true without warrant or in which what is to be proved is implicitlytaken for granted.
[21] TheCentral Philosophy of Buddhism, (A Study of the Mādhyamika System), London:George Allen and Unwin, 1955, p. 40.
[22] Refer to: Historyof Philosophy with especial reference to the Formation and Development of itsProblems and Conceptions, by Windelband, New York: Macmillan, 1956; p. 556.
[23] Windelband: Ibidem,p. 555.
[24] For the back ground of argument, seeWindelband, Ibidem., pp. 555-556.
[25] T'ien-t'ung Ju-ching, 天童如浄: 1163-1228.
[26] Manzan Dōhaku (卍山道白: 1635-1715)
[27] Shōbō Genzō Bukkyō(「佛教」、the 24th fascicle): "The Buddha'sTeaching." Translation: "Authentic transmission of the Dharma isaccomplished from one's self to one's self, and hence, one's self should benecessarily within the authentic transmission of the Dharma."
[28] Keizan(塋山、1264-1325), Record of the Transmissionof the Light(Chap. Kāśyapa『伝光録迦葉章』).『伝光録迦葉章』
[29] In an attempt to compare Nāgārjuna's method ofdialectic with the dual processes of Dōgen's personal authentication, I shalltake up Verses 36 through 39 of the Vigrahavyāvartanī (A Treatise on the Removal of Disputes, 『廻諍論』) ascribed to Nāgārjuna. It is a stroke of ingenuity on the part ofNāgārjuna that he creates a dialectical context by juxtaposing the entities of'light' and 'darkness' in reference to one and the same spatio-temporal sphere,because, in convention, it is taken for granted that 'light' and 'darkness'establish a contact at some point in space and time.
[30] Ibidem, 36: When light illumines itself and others, darkness also obstructs both illuminations. [light and darkness contradict inopposition]
[31] Ibidem, 37: Wherever light illumines itself and others, nodarkness can remain in operation, because, otherwise, how can light illumine anything? [Light alone, darkness negated]
[32] Ibidem, 38: Does lightillumine darkness at the moment of its arising? No, light does not reachdarkness from the beginning. [Light alone, darkness negated]
39: If lightillumines darkness without reaching it, no darkness remains in operation,because this light here illumines the entire world without reaching darkness.[Light alone, darkness negated]
[33] The early original form of the Four-foldBodhisattva Vow(四句誓願)can betraced back to the Eight ThousandSloka-Prajjñāpāramitā Sūtra (Fasc. 8),(『八千頌般若経』), translated by Chih-lou-chia-ch'en in A.D. 179, [Taishō. 8, (No.224)]; Lotus Sūtra (Ch. 3),(『妙法蓮華経』)translated by Kumārajīvain 406, and so on, but it is clearer still in the Bodhisattva Ornament Sūtra (vol. 1 of two vols.). In this Sūtra,the Bodhisattva's vow is formulated with reference to the four Holy Truths.(『菩薩瓔珞本業経』)or the Sūtra on the Original Action of the Garland of the Bodhisattva(2 fasc.) translated by Chu-fo-nien (Buddhasmṛti) in 376-378. Taishō. 24 (No.1485), 1010.
May I help all those who have not overcome suffering overcome it;
May I help all those who have not understood causal aggregation understand it;
May I help all those who have not settled firmly in the path settle upon it;
May I help all those who have not realized Nirvāṇa realize it.