中華佛學學報第18期 (p327-362): (民國94年),臺北:中華佛學研究所,http://www.chibs.edu.tw
Chung-Hwa Buddhist Journal, No. 18, (2005)
Taipei: The Chung-Hwa Institute of Buddhist Studies
ISSN: 1017-7132
市村承秉
北米禅仏教学研究所長
『般若心経』には、玄奘三蔵の訳の他、羅什三蔵による漢訳のあったことはあまり知られていない。二者の漢訳経典の内容は、その使用する語彙、構文、並びに表現において、驚く程、一致している。しかし、経典の説示者が観世音菩薩と観自在菩薩と異なった訳名が与えられているので、時代的には旧訳と新訳の相違が確定している。観音のカルト信仰は極東の諸国の仏教のみならず、一部ビェトナム仏教にも見られる程、汎文化的勢力とみられ、大乗仏教宗派の活動している地区には必ずや観音信仰が並存していたことがわかる。
この宗教運動は、般若経典の説く般若皆空の理念と『法華経第二十五章』で強張される菩薩の愛と慈悲の実践とが、一者に統合された宗教性を根拠としていると考えられるが、かって、当『中華佛学学報』(第十三期巻下)では、般若の理念と菩薩の慈悲の関係の考証を、“Buddha’s Love and Human Love”(「仏陀之愛与人類之愛」)の題名で発表していただいているから、この小論では、如何にして両者の宗教性が中国仏教徒を介して汎文化勢力となって行くかについて検討したい。即ち、仏教の空性の理念が、印度においては、ヒンドウー教的梵我の実在者の否定を介して出発しているが、この無我及び空への転換が中国の観音信仰に最も明白に観察されると考える。印度のヒンドウー教護教学者が空観を虚無論とまで批判したのに対して、何故中国では今日まで空観の理念と実効性が、宗教文化の根底に存続維持されてきたものであるか、その根拠の開明を、此の小論で追求してみたいのである。
關鍵詞: 1.Kumārajīva 2.Hsüan-tsang 3.prajñā and śūnyatā 4.Prajñā-hridaya-sūtra (Hannya-Shingyō) 5.Saddarmampundarīka-sūtra (Lotus Sūtra or Hekekyō) 6.Avalokitasvara and Avalokiteśvara
大唐帝室の玉華宮において玄奘が翻訳を完遂した最後の梵文経典は、その数六百巻におよぶ、最長にして記録的な『大般若経』であった。[1] この単一経典は、其れ自体に、同じ般若経典類中、他の三者、即ち、『十万頌般若』、『二万五千頌般若』、そして『八千頌般若』の各経典を含有しているのである。従って、この経典翻訳の完遂が、その始め玄奘が訪印を決意した究極目的であったと伝えられているが、その意味でも、般若経典に関する彼の哲学的並びに言語的理解は、実にその権威をなすものであった。当小論における筆者の興味の焦点は、『心経』と言う簡約名称で知られる『摩訶般若波羅蜜多心経』である。エドワード.コンゼ教授が曾って発表した研究によれば、この経典のことごとくの頌句が、他の般若経典、即ち『二万五千頌般若経』、所謂『大品般若経』中、特に第二章に残すことなく全部見出せることが証明された。[2]
玄奘並びに羅什三蔵によって翻訳された二者の『般若心経』は、語彙及び表現における近似性が極めて高いため、両翻訳経典の文献批判を目的とすることは、無益な事と判断したため、各々の時代文化並びにその後の影響の如何についてのみ検討することにした。文化的見地から考慮する時、『心経』の説者が佛陀ではなく観世音菩薩となっている点において、この経典は元来極めて画期的な革新性を持っていたと考えられる。玄奘が此の経典を普及させるにおよんで、大乗仏教的愛と慈悲を人格化した観音菩薩が、カルト信仰運動の中心となって、極東の諸地域に伝播される汎文化勢力となって行くのである。しかし最も重要なことは、『般若心経』の解説する大乗仏教の宗教性は、この文化勢力から切り離せない根本要素であると言うことである。
『般若心経』の経意を追求するにあたって、筆者は、仏教の空性の理念が、印度においては、ヒンドウー教護教学者により虚無論とまで攻撃されることがあったが、
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中国では、何等この様な批判をうけることもなく、何故今日まで存続維持されてきたものであるか、その根拠の開明と、また同時に、観音信仰の文化勢力が、現代にいたる長期間の間、何を、大乗仏教の宗教性として今日に伝達して来たかの開明を、此の小論で追求してみたいのである。
玄奘により世紀六百四十九年以降漢訳された『般若心経』は、わずか二百六十九漢字に構成されるもので、最も短小の経典である。玄奘はこの経典を、それ以外、根本的な般若経典類を網羅する『大般若経六百巻』から明確に区別し独立した経典としているので、彼はこの最少最短の経典を一個の独立した経典と考えていたに違い無い。[3] 『大正大蔵経』第八巻によれば、
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八種の『般若心経』が現存していたことがわかる。若し他の現存していない文献経典を加えれば、総合十三乃至十四種の同経典があったことになるが、[4] この最少経典が、玄奘没後数百年中、如何に中国仏教徒の関心の標的となっていたかを物語って居る。
現存している最古の翻訳経典は、鳩摩羅什(A.D. 344-413)の漢訳として知られる『摩訶般若波羅蜜大明呪経』[5] であるが、羅什の訳経は前期旧訳時代を代表し、玄奘の漢訳経典は『般若心経』を含め、総べて後期新訳時代を代表するものであった。[6] 玄奘の翻訳『般若心経』以降、大正蔵経には六種の類似し、且つやや拡大された同一の経典が、それぞれある程度の改善進歩を含めて記録されている。
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最後期の漢訳『心経』は、西紀981年に、訳経僧施護(ダーナパーラ)に訳されたものと記録されるまでに、各々百年に二回同様な訳本が記載されている。[7] しかし、不思議なことに、羅什と玄奘を切り離す二百年間中、一切他の翻訳『心経』が記録されていない。そればかりではなく、六朝時代、僧祐(445-518)[8] により集録された訳経目録(『出三蔵記集』)にも羅什の訳者名で採録されている経典以外一切見当たらない。更に、玄奘さえ彼以前に翻訳経典として存在した『心経』を承知しておらず、玄奘訳『心経』の序文に附録されている中国語音訳の梵文心経には、玄奘の言として、彼が印度に旅行する途上、偶然逢った病僧から介抱の礼として、この経典を口頭で伝授されたものであったと言い、彼の漢訳経典は其の再現であると記述されている。[9] 現代のある日本人学者は、玄奘が序文で名指す経典は恐らく羅什訳の経典であったものと仮定できると言うが、
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[10] また他の学者達はこの意見には懐疑的で、存在していたものは、むしろ元来単一梵文経典であったか、或は又、その梵文中最後に出てくる呪文(マントラ)を含む一断片であったかも知れないと考えるようである。[11]
『摩訶般若波羅蜜大妙呪経』が鳩摩羅什に帰せられることは、『心経』の「般若の理念」の真髄を表示する語彙、並びにその構文様式が、一言一句、同じく彼の漢訳とされる『大品般若経』、即ち、梵文『二万五千頌般若経』第二章中の一部における語彙並びにその使用方法と、全く同一であると言うことで反諍の余地がない。一方、玄奘の『心経』について重要なことは、梵語と仏教学を印度の現地において習得し、幾多の訳経活動に従事した玄奘が、鳩摩羅什の使用した語彙や、その構文を、彼自身の訳経に踏襲すべき何等の理由もなかったであろうから、何故期せずして両者の訳した『心経』
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が同様な語彙や構文で表現されることになったものか、特に、両者の生存が二世紀を隔てており、異なった文化的指向性を持ち、且つ各々異なった梵文原典に接していたものと想定する限り、実に興味と魅惑を覚えずには居られないのである。
上記二者の翻訳三蔵が使用した写本は同一のテクストであったか、それとも異なっていたものか、についての問題は尚論議をまたねばならない。何故かと言えば、写本は往々にして写謄者の誤植や増補、或は欠字等のままならぬ結果が伴いやすいからである。一般に、二写本中のいずれがより原典に近いと言う意味で、他の一者よりもより権威をもつているかどうか決定することは、写本の時代や場所が明示されていないかぎり、極めて困難な事である。しかしながら、羅什と玄奘の写本は、全く異なった梵文テクストであったことを証明する明白な証拠がある。それは、羅什の訳本によれば、『心経』の説示者は観世音菩薩であり、玄奘の訳本では観自在菩薩となっているからである。「観.世音」と「観.自在」は各々異なった梵語の合成語、即ち、「アヴロキタ.スヴァラ」(avalokita-svara)と「アヴァロキテーシュヴァラ」(avalokita-īśvara)として出来上っている。
西紀288年竺法護(ダルマラクシャ)が訳出した『法華経』には「アヴァロキタ.スヴァラ」を「光世音」と訳出しているが、この訳名の意味は羅什訳の「観世音」と同一で、「世間の声を聞きそれを観照する菩薩」となっている。「光」を使用しているのは、根本的には鳩摩羅什の使用する「観」と同様な意味で、宗教的意識の照明、乃至、観照を表示する。かくして羅什も、アヴァロキタ.スヴァラを「世間苦の声を観照する菩薩」の意味を持つ「観世音」と訳したのであるが、彼はこれと同一の訳名を、406年完成した漢訳『妙法蓮華経』の、特に第二十五章「観世音菩薩普門品」[12] に使用したのみならず、西紀402年より405年にかけて翻訳した龍樹の大冊、『大智度論』中、同一の訳名を使用している。
西紀649年印度から帰着以降、玄奘が「般若空観に自在なる菩薩」と言う意味で、羅什の訳名と異なった「観自在」を使用したが、[13] 彼以降の訳経者、
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例えば、法月(Fa-yueh),智恵(Prajñā),利言(Li-yen),智慧輪(Prajñācakra),法成(Dharmasiddhi),不空(Amoghavajra),施護(Dānapāla)は、ほぼ皆玄奘の訳名に従っている。しかし、智慧輪のみ両訳名を丁寧に重ねて「観世音自在菩薩」と訳出している。
仏教の愛と慈悲の理想を象徴する菩薩に関する二者の梵語名中、何れが当菩薩の原本的な名称であったかについての研究は多々あるのであるが、今日総合的に知られていることは、例えば、観音の彫像に関する第一人者と言われる印度のロケシュ.チャンドラ博士によれば、「観世音」の名称がオリジナルであるか又は時代的に古く、「観自在」の名称は、後代ヒンドウー教のシヴァ神が、救世主としてカルト信仰運動の対象と成り、次第にその頭角を現して来る時代的環境に属すると言う。[14]
七世紀の前半五十年の更にその後半期に、玄奘が訪印したのであるが(629年出発、649年帰着)、彼の『大唐西域記』によれば、「観自在」の名称の使用が既に普及していたと言う、そして中世の後期になって、両者の名称の使用が混乱することになったため、例えば、シャンテイ.デヴァ(寂天:650-750)の『入菩提行論』[15] で例証されるように、仏教の愛と慈悲を象徴する観音乃至観自在菩薩は、「アヴァロキタ」の一語によって名指すことになったと言われる。
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[16]
一方、印度においては、「観世音」(アヴァロキタ.スヴァラ)から「観自在」(アヴァロキテーシュヴァラ)への部分的名称変化の史実を一応承認しながら、一方中国においては、この菩薩信仰運動に関わりながら、『般若心経』が中国仏教文化史に最も重大な基本理念を提供することになることを予想しなければ成らない。何故ならば、一切の般若経典中、この般若の超越理念の解説者は常に釈尊乃至佛陀であるが、只一度この『心経』に於いてのみ、観世音乃至観自在菩薩が、般若の智乃至空性の理念の解説者として現れるているからである。更に『妙法蓮華経』第二十五章「観世音菩薩普門品」を通して、此の菩薩が仏教徒の至上の擁護者乃至救済者として紹介されると同時に、[17] 釈尊の涅槃後、般若と慈悲の二者の徳性に基ずき、積極的な実践道を追求するという使命を遺産として受け継ぐのである。『般若心経』中、当菩薩が超越的空性の理念とその自内証を解説する主役に配役されて居ることは、とりもなほさず、般若経典の総体におよぼす脚本の書き直しを成立したと見ることが出来る。即ち、一切の生類をして苦を解脱し、涅槃を達成せしめんと努力する当菩薩の積極的な実践道が、空性の超越道の脚本中に書き込まれることになったものと見なければ成らない。
この菩薩の名は浄土経典にも現れるが、[18] 其処では阿弥陀佛との関係が、
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釈迦牟尼佛と将来佛弥勒菩薩との関係に近似している。[19] 『華厳経』においても、求道のため弱冠善財童子が、南印度を舞台として五十五人の先達を巡礼し問答を繰り返すのであるが、観音の名称がその中の一人として現れる。[20] 然し、なんと言っても、愛と慈悲の積極的な実践と超越的般若波羅蜜の禅定とを、『般若心経』において連結せしめることによって、此の両者をして、東アジアにおける一大文化的創造力の源泉とならしめたもので、これをその後の歴史的事実の発展にうらずける時、秘められたこの経典作家の天才的発想力には、真実驚嘆せざるを得ないのである。超越的般若の禅定と積極的慈悲の実践とを、大乗仏教の最高完備した宗教性の発露として見る時、筆者は、『般若心経』の宗教並びに文化の研究は、この菩薩における二面の宗教性の連結に基盤をおいて達成されなければならないと確信している。
『般若心経』の構格についての研究は今日ほぼ完成されている。二十五頌によって成り立つやや長篇の『心経』と、十四頌により成立する短編の『心経』の両者があるのであるが、この経典の理解の仕方には、従来伝統的な見方として一般に、顕教に属するものと考える立場と、又一方密教に属するとするものとの、二者が成立して来た。[21] 前者によれば、先ず『心経』の前半部は、大乗仏教の空性の理念と、般若波羅蜜の内観を解説する点で顕教の立場に在るとする説と、後者によれば、丁度経文が密教的祈祷で終焉するように、タントラ仏教の一部として祈祷を宣伝する密教の立場に立つものとする説の二者に別れる。然し、筆者は、伝統的な上記二説とは異なる、エドワード.コンゼ博士が定説とする極めて斬新な解釈を採択することにしたい。
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即ち、『般若心経』の元来の教意は、五薀十二処、十八界、十二縁起、そして最後四聖諦で終わる根本的仏教真理について、一切の実在性を弁証論法により否定する大乗仏教の立場から、仏教の真理を再宣言することにあったとみることである。筆者は、この『心経』こそ、釈尊が初転法輪に依って宣言した内容に平行して、大乗仏教の宗教的解脱を第二転法輪として再宣言することにあったと見ることに、全く賛成の意を持つものである。
コンゼ博士が1948年「ロイヤル.アジヤ協会紀要」に「般若心経の原文、資料、並びに文献目録」と題して発表した小論に、『心経』の構文を七節に分別し、是等に相当する各々の構文を『二万五千頌般若経』、所謂『大品般若経』第二章中に見出せることを証明し、『心経』の一切の言語、成句、そして文章は、上記経典より抜粋されたものであることを発表した。[22] そして更に同博士は、仏教の真理、即ち、「四聖諦」に関して、この『般若心経』は、初歩の学徒が般若の教意を心に留め、またそれに従うことによって得られる宗教的利益について、再宣言しているものと主張するのである。[23] 筆者の判断するところでは、『心経』の伝統的な文献学とその解釈方法は、コンゼ博士の解釈の線にそって、今日尚充分に探索の努力を果たしていない様に見える。その結果として、当経典の出現についての史的展望が殆ど伝統的な課題に取り込まれて、其処から脱皮していない様にみられるのである。
一般に、内実のある経典は、その始め序文において、経典の由来に関する五カ条の参照項目を簡単に述べるのが普通である。即ち、(1)その経典の内容である説教の報告、(2)報告された説教の時刻、(3)説教者は誰か、(4)説教のあった場所、(5)その説教に集った聴衆は誰か、等である。[24] 鳩摩羅什並びに玄奘による『心経』には、その構成上、共通して上記の五カ条の参照項目をのべる序文が欠けている。その代わり、簡単に二個の頌文で置き換えられている。
p. 339
[25] 羅什及び玄弉以外の翻訳経典で、やや拡大された『心経』では、殆ど定型的な標準に従って、経典の由来と背景が序文に述べられている。[26] 羅什と玄奘訳の『心経』、あるいは又、両者の依るべき梵文原典には、
p. 340
等しく序文の部分がないことになる。[27]
下段の脚註に表示したように、中国語頌文「度一切苦厄」が羅什並びに玄奘の訳文の両者にはあるのであるが、梵文経典には欠けていることを特筆しなければならない。更に、智慧輪に帰せられる訳経以外、玄奘の訳経以降の他の五訳とも、驚いたことに、当中国文「度一切苦厄」を載せていないことである。智慧輪はやや拡大された『心経』を訳しているのであるが、先ず序言として上記の五カ条の参照項目を述べる。しかして、大度量を持つ観世音自在菩薩が深般若波羅蜜多を行じ、五蘊の一切が悉くその実在に欠け空なることを照見していると紹介する。[28] その時点において、佛陀の教示にしたがって、舎利弗は観世音自在菩薩に、般若波羅蜜多を行ずるにあたり、如何様に照見すべきものか、指導を乞うのである。[29] 当菩薩はそれに応えて舎利弗に以下のごとく語る。
汝は、深般若波羅蜜多を行ずるにあたって、あまねき照明を経験し、何が故に五蘊の一切が、悉く自性を持たぬことを見るであろう。斯くして、汝は一切の苦乃至災厄を超脱するのである。[30]
梵文原典は「度一切苦厄」に相当する文句を欠いているが、[31] 智恵輪のやや拡大された漢訳が何故玄奘と羅什の両訳に準じたものであるかの理由は、興味のある問題である。あるいは、二者の異なった写本が存在したとして、その中、一者が「度一切苦厄」の文句を有し、今一者はそれを欠いていたと言う事であろうか。コンゼ博士によれば、梵文原典には上記の漢訳文句に相当するものがなかったと言うことになるが、玄奘と羅什の使用した両者の梵文原典にはそれがあったことになる。かくして、コンゼ博士は、その脚註を以下のごとく記述する。
「度一切苦厄」を追加したと言う形跡は如何なる梵文原典にも全く見られない。〔したがって、〕『心経』の原典は中央アジアの何処かで創作されたもので、そこから鳩摩羅什が、その写本を持参してきたものであろう。[32]
残る五本の漢訳は、「度一切苦厄」の文句を一貫して欠いていて、直ちに各々の五蘊の弁証法的否定に継続して行くのである。[33]
『心経』の後半部は、上記の弁証法的否定による効果についての勧告と礼讃を主とする。[34] 即ち、この否定は「四聖諦」が概念的に指示する実在対象の否定で終焉するのであるが、[35] 否定は更に「得」及び「不得」の両者の対概念の否定に続き、
p. 343
此の「得」の概念的実在対象がないと言うことにおいて、[36] 菩薩は般若波羅蜜多の行の実践に努力するのである。斯くして、菩薩は諸々の障碍より心意識を自在ならしめ、[37] 心意識に障碍が無いが故に、菩薩は怖畏なく、一切の転倒した妄想乃至苦悩災厄より自在を得、遂には究極的な涅槃を実現するのであると。[38] 後半部において、空性の理念が、大乗仏教の無上の真理であると再度主張していることは、それに引き継いで最後のマントラ祈祷に至るまでの頌文に議論の余地ない程明白である。
上記の効果によって、三世の諸佛達は、常に変わりなく般若波羅蜜の行に依って立ち、[39] それに依ることによって無上の正覚を過去に於いても、将来においても獲得するのである。[40] 従って、この『般若心経』は、如何なる人にとっても、大神呪であり、[41] 大明呪であり、[42] 無上呪であり、[43] 無比無上呪である、[44] そして亦この『心経』は究極的真理であり、間違いなく一切の苦を抜く神呪である。[45] このようにして、祈祷神呪は『心経』を称えて以下のごとく唱える。「如何なる者にせよ、彼岸に到達した者は、完全に到達し切った者は、吉祥な菩提を実現する。」(gate gate parāgate parāsaṃgate, bodhisvāhā)[46]
渡辺氏の研究分析によれば、[47] 初期の般若経典の翻訳においては、たとえば支婁伽纖[48] の漢訳『道行般若経』、[49] また同一の経典で鳩摩羅什によって訳された『小品般若経』[50] では、明乃至智慧を含む三者の呪文を表出するのに同一の訳語を使用していると言う。即ち、大明呪(mahā-vidyā)、「無上明呪」(anuttara-vidyā)、そして「無等等明呪」(asamasama-vidyā)であるが、是等三者の訳語は等しく「明」乃至「智恵」を表出しているもので、「呪」(マントラ)を表出しているのではないと言う。同様なことが、羅什により漢訳された『二万五千頌般若』、即ち、『大品般若経』にも出てくる三者の明乃至智恵の表現についても言えるという。[51] これに対して、玄奘の漢訳『大般若経六百巻』中、特に第二会、即ち、上記『二万五千頌般若経』に相当する部分に出てくる三者の合成語の表現を、玄奘は「マントラ」、即ち「呪」と訳し、「大神呪」(mahā-mantra),「無上呪」(anuttara-mantra)「無等等呪」(asamasama-mantra)としている。是等の訳語は明らかに玄奘の『心経』中にあらわれる訳語と同一である。鳩摩羅什と玄奘との訳経の相違は、明らかに、古訳と新訳の異なった訳経時代を、それぞれの背景として反映していることが分かる。
元来、神呪としてのマントラはヴェーダ時代の祭祀に使用されたものであるから、極く初期の般若経典の造経者は、ブラーフマナ時代の伝統語を使用することに躊躇したらしい。渡辺氏の研究では、『八千頌般若経』の造経者達は、マントラ(呪文)の使用や、またその語に何等の興味ももっておらず、般若波羅蜜多の内観の行に専心して獲得された三昧の行境は、如何なる悪意にみちた意図や、またいかなる秘密の呪文にも影響されることがないと、ひたすら主張しているという。更に、彼等は不退転の境地に到達し得たいかなる菩薩も、[52] 得体の分からぬ薬物や秘呪に左右されることは全くないと主張していると言う。初期般若経の造経者達は、むしろマントラを詩文(kāvya)や、知識(vidyā)や、科学(śāstra)のごとき、一般俗世間の学芸の一分野と見ていたようであるから、
p. 345
一般に「知識」の意味の語と合成語として「ヴィデイヤー.マントラ」「明呪」の表現を使用したものと言われる。[53]
此れにたいして、玄奘が印度を訪れた当時、上記の場合とことなる環境に直面したのであるが、後期般若経典の造経者達は、ヒンドウー教祭司者の使用する秘呪の魔法力を積極的に拒否するため、特に般若波羅蜜の内観の行力の偉大さを主張するに至ったと言う。その一表現として、「般若の智」(明=ヴィデヤー)に「マントラ=呪文」を付した合成語「明呪」を使用したのであるという。かくすることによって、仏教の解脱への第一歩となる智慧(無明に対する明=ヴィデヤー)こそが、無明(アヴィデヤー)を打ち破る究極の力倆をもち、玄奘が『心経』の漢訳に「明呪」を使用したことも、上記の歴史的背景を表示し、鳩摩羅什の時代と区別していることになる。
今ここで筆者は、コンゼ教授の主張、即ち、『心経』は密経経典ではないとする意見を導入することにしたい。彼自身の定説を擁護するために、コンゼ博士はパーリ聖典語の使用を参照に出す。事実パーリ語経典『スッタ.ニパータ』について、佛弟子サーリプッタに帰せられる注釈書『ニッデーサ』中には、上記と同一の使用が見出されると言う。[54] 此の注釈書には「般若智」がマントラとよばれ、更に、サンユッタ.ニカーヤの一節には、「四聖諦」の解説を主題とする『初転法輪経』の知乃至智[55] は「明」(パーリ語ではvijjā梵語ではvidyā)とされている。[56]
従って、これら二者の経典では、「ヴィッジャー」も「マントラ」も共に秘密で潜勢的な魔法力を含有する短縮された呪文を意味するのではなく、佛陀の四聖諦についての根本的な知識乃至智慧を意味するのでったとするのである。『初転法輪経』に平行して、『般若心経』は「四聖諦」をその中心課題として取り上げることに於いて、
p. 346
『第二転法輪経』を成立すると、コンゼ博士が指摘する所以である。[57] この大乗仏教の思想が中国人並びに極東アジアの仏教徒の心に膨大なアピールを与えることになったのは、蓋し当然であろう。
中国における観音信仰運動は、西紀286年に護法が『法華経』を漢訳した後間もなく発生したものと一般に信じられているが、もっとも確実なことは、406年に同一の『法華経』が、鳩摩羅什により、より流暢で理解しやすく漢訳された後、即ち五世紀以後、急激に南北両大陸に伝播されたものであろう。[58] 隋朝が南北の両大陸を統一することが出来た背景には、是等の仏教信仰運動にともなって、仏教徒の活動が一般社会に参加する契機が介在したことを否定出来ない。筆者は、中国の中世初期における主要な文化勢力は、般若の理念と観音の積極的慈悲行という二者の宗教的要因によって、起動され推進されたものと理解する所以である。
是等二者の要因は、『般若心経』により象徴的に統合されたものであったが、この結合は、まことに巧妙な時宜に徹した一撃ともいうべものであったと考える。印度における観音はアヴァロキタ.スヴァラと称して、元来男性神として、何処に伝播されようとも、常に男性像として二千年のあいだ存続してきた。しかし中国に於いては、観音像の幾つかは印度的彫像のまま中国人仏教徒に崇拝されたにもかかわらず[59] 彼等の文化的並びに審美的な見地から、
p. 347
唐時代後半期に男性像から女性像に変容して伝播されることになった。この女性像、または中性的な観音像こそ、厳密な意味で、中国的観音菩薩の基本的理念を人格化したもので、過去及び現在をとわず、般若波羅蜜多の智慧と積極的な愛と慈悲の徳性とが一者に統合されたものに外ならない。[60]
ロケシュ.チャンドラ氏は、才気鋭く、印度のアヴァロキタ.スヴァラ(観世音)は、地の主宰者、そして又ヒンドウー教の主宰神、世間の救済者とも知られる、ブラフマ神の権化であると理論ずける。しかし、筆者は、読者にたいして印度と中国の観音信仰には、文化的にも宗教的にも、重大な相違があることに気がつくよう勧告したい。ロケシュ.チャンドラ氏は、印度のアヴァロキタ.スヴァラ信仰の起源と彫像表現史ついて、極めて説得力の在る分析を提供するが、彼は印度のアヴァロキタ.スヴァラ信仰と東アジアの観音信仰とでは、それぞれの宗教性の基盤において決して一枚岩ではなかったことに気がついていないように思われる。彼の学的力倆として、アヴァロキタ.スヴァラはブラフマ神の権化であり、ブラフマ神の潜勢力を基盤として、その多種多様な変化身を印度の彫像表現に出現させたと理論付ける事は、実に見事である。
しかし、この理論づけの根拠として、彼は、一方、変化身の基盤と成る究極的質料はブラフマ神であると言う仮説と、亦一方、仏教で説いた本地垂迹説、即ち、超越的な一元的質料(本地)が現実の経験界に多種多様な現象として出現する(垂迹)、と言う哲学思想の仮説の二者を要因として擁立しなければならなかった。[61] 筆者は、此所で以下のごとき質問を呈示しなければならない。即ち、ブラフマ神の潜勢力がアヴァロキタ.スヴァラの宗教性を代表する中心原理であるとする理論は受け取れるとしても、
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果たして、この原理が、中国において中国人佛教徒が観音信仰の宗教性として掲げた中心原理と同一であろうか、と言う質問である。
『法華経』並びに『浄土経』におけるマントラ、ダラニ、そして頌章について、ロケシュ.チャンドラ氏はアヴァロキタ.スヴァラを、ブラフマナ祭祀におけるブラフマ神と平行に、呪文の発声者(mantra-drastā)とし、この発生音(svara)に耳をかたむける者(avalokitr)とし、此の発声音が、それぞれヒンドウー教の神々に叶った呪文またはマントラを発声することによって、彼等を自分に同一化させるか、又は自己の変化身として現象せしめるというのである。[62] 筆者が『法華経』第二十五章を理解するかぎりにおいては、観音の中心問題とする所は、苦難に逢着し苦悩に喘ぐ民衆の救済と言うこと以外ないはずである。愛と慈悲という観音の徳性は決して自己自身の利益を計るために出現したものでもなければ、何等かの超絶的な原理が其れ自身を現象界に照し出すためのごときことでもない。菩薩として、彼の愛と慈悲の特性は空性の理念によって充分バランスがとられているものに違いない。さもなければ、彼は愛と慈悲の権化としての菩薩の資格も存在価値もないことになるであろう。中国における観音信仰は、空性の理念と言う根拠と、『法華経』に宣言された久遠実成の正覚を根拠とした菩薩の誓願と行道を根拠とするものであったのである。
何故観音像が中国において、男性像から女性像に転換することになったかについては二、三の解釈がある。まず、第一に唐時代(618-907)の中国大陸北西部地域には、シャーマニズム及びチベットの民間信仰ボン教にそって、仏教あり、道教あり、イズラム教並びにゾロアスター教にそって、キリスト教あり、マニ教ありと言うように、異なった諸宗教が肩を張り合って競争していた時代である。[63] パーマー並びにラムジーは特別な注意を幼児を胸に抱くマドンナに向けるべきだと言う。当共同著者はこの象徴的なマリヤ像は元来エヂブトの女性神イシスとその神聖な幼児ホルスから導入されたものと言う。斯くして、観音の女性像への変化は、キリスト教中に純母マリアが礼拝信仰の中心になると同様な筋書きで起こり得たものと、
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論ずるのである。
第二の説明は、上記の説にたいする代替説とも言うべきもので、上記の共同著者は、中国の道教には、仏教の観音以前に女性神が存在していたことに注意し、女性観音の出現は、一度神聖な女性像をもつ文化が、ある種の文化的抑圧要素に反応しつつ、その再現をはかるとき、新しい彫像を導入する可能性があるが、そのような環境条件をもって説明できるのではないかと主張する。[64] ブロッフェルトは,しかしながら、女性観音は寧ろチベット仏教の女性菩薩ターラーから来たものと考え、イシスからマドンナヘ、マドンナから女性観音への転回は宗教的にも文化的にも、甚だ縁遠い類似性と言う外ないと結論する。[65] なおこれには第三の見解がある。即ち、『アジアの芸術』に発表されたエリーナ.シュミット女史の意見では、主要な影響の資源はイランの水の女性神「アナヒタ」とギリシャの豊産女性神「アルテミス」の両者の連結された形体ではないかと言う。[66]
以上の意見にたいして、筆者は女性観音像の進化発展にかんして、それが唐時代に突然出現したと言う史実を、むしろ般若経伝統の中で追求してみる必要があると考える。何故かと言えば、般若経典の宗教性が覚者の母として人格化され、後期大乗仏教徒によって、印度並びにチベットにおいて礼拝尊崇されたことに起因しているのではないかと考えるからである。[67]
極く最近中国を訪問し大陸を旅行する機会にめぐまれた。長年月を経た中国芸術の画風と揮毫の伝統を垣間見ることが出来たのであるが、中でも観音菩薩の画像や『般若心経』の墨筆に幾会となく接することが出来た。これらの創作品には、勿論、海外の訪問顧客により購入されるものもあろうが、しかし其の大部分は各地域の顧客によって購入されるものに相違ない。1999年、銅川市に於いて開催された第二回玄奘研究国際会議からの帰途、筆者は同行者と共に、四川省の万県市を訪問し、市内に設置されたある中世農業村落の博物館を参観することができた。そこで観たものは村落の村長の家屋であったが、その客間の奥の中央左側に、観音を描いた掛け軸がかけられてあった。その右側には孔子を描いた掛け軸が同様掛けられてあったが、特に驚いたことは、観音像の掛け軸に『般若心経』が画賛のごとく筆写されてあったことである。観音の画像と『心経』の筆写が一幅に合併されたものは、その他洛陽でも西安でも拝見したことから考えて、観音像と『心経』の写筆の連係は、伝統的な画風の一課題にまでなっていることを知った。実に、この深遠な文化的潜勢力が、限り無い世代を貫いて現在に継続し、今日西欧共産主義のイデオロギーや、其の政府の社会体制下にありながら、伝統芸術を通じて、精神文化の底を流れる潜勢力として、其れ自身を再主張している実状を確認した次第である。この事実は当小論の目的、即ち、『般若心経』の宗教性と観音信仰の文化勢力とが合一しての結果であると、筆者は理解している。従って、この最後のトピックではそれを検証することにしたい。
歴史学者には知られている様に、西紀前六世紀中、周の帝室は一方的に勢力を失い、封建国家体制は急激に崩壊する過程にあった。このような時代の趨勢にたいして、孔子は周朝の貴族及び其の文化の保存維持に努力し、礼法に叶った貴族の行為の厳正化に努めた。此れに対して一般民衆の立場に立つ墨子[68] とその弟子達は、孔子及び儒者達とは異なり、周朝の文化を分担していた訳でもなく、又念入りな礼儀作法や君子の道義によって、一般民衆の生活を複雑化しようと言う意図はなかった。貴族階級から区別された一般民衆は、租税労働のみならず、刑法においては独り懲罰を課せられたのにたいして、貴族階級は独自の道義法制下にあったのである。一方、貴族達の道徳律を支える原理は、
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偏に自然的距離の長短にあって、例えば主従の連体意識や義務の遂行は、自然的な近親性に依存していた。[69] 一方、墨子やその弟子達は、万人に共通な理性と論理を尊重し、実用性と効用性を標準規定として、道徳律の根拠には自他に対する平等な普遍愛、即ち「兼愛」の理念を導入していたのである。[70]
一般に、中国史に関していつも問題になるのは、秦及び漢の帝室以来儒教的な伝統が次から次へと、変わりなく各帝室の治世理念として採択されてきたことである。しかし墨子の学風は決してその後忘失されたのではなく、ときどき史上にあらわれている。文献的には三世紀及び四世紀にかけて改革派新道教運動により学究の一部として、その文献が保存されていたことが知られているが、[71] 初唐時代の仏教学派、例えば、三論宗の吉蔵は『三論玄義』で墨子の論理学にまで言及していることでわかる。[72] 中国史に於いては、統治される一般民衆の為の正義が、統治に立つ権威的立場が優位と視なされることによって、どちらかといえば、第二義的に見送られてきたように見える。今日如何なる民族国家といえども国際国家社会を離れて治世判断が出来ない。又、統治される民衆の正義を無視して独自の統治権を主張することも出来ない時代となっている。両者の調停原理は実に困難な課題であるが、筆者は、般若の空性の理念と積極的な愛と慈悲とを人格化した観音菩薩の精神が、
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両者間の調停の一原理として中国社会に貢献してきたものと考える。
こと治政理念や統治権に関する限り、孔子や儒者の伝統理念が一方的に採択され、墨子とその学派の伝統は上記のごとく前者と決して相容れないところがあったため、殆ど適用されることが無かった。しかし、哲学的に見る限り、孔子の学説と墨子の学説とは決して対立すべきものでは無く、むしろ相互に償いあう関係にあったと言う。この間の消息を現代中国哲学や宗教文化の泰斗胡適博士の意見を借りて以下簡単に説明してみたい。[73] 何故孔子が『春秋』を書き上げたかと言う動機は、先ず第一に、「名称と判断の匡正」により、社会を理知的に再編成することにあったと言う。即ち、「名称と判断の匡正」によって、腐敗した当時の政治機構を改革し封建国家間の秩序と正義を回復することが、唯一の方法であると孔子は信じていたのである。孔子は、『春秋』を執筆するにあたり、一々の記録に、正確な言辞を使用し、封建国家間の関係をその法則に従って、あるいは正義、或は不正義と定義し、道徳的判断を交えて、慎重かつ法律的な構文をもって叙述したと言う。孔子は封建諸国家間の抗戦のあるものには侵略ときめつけたが、ただ一つ、天子より何等かの名目をうけて敢行した侵略は懲罰攻撃と定義しているという。要するに、『春秋』は孔子が彼の持論である「名称と判断」の匡正を歴史的な記述に託して試みたものであったのである。この孔子の方法論は、簡潔に言って、正確な言語の使用と倫理的判断を内含し、理想的な関係を敷衍する言語の使用であったが、此れがその後の儒学者の伝統となるのである。[74]
一方墨子の学派では、この観念論的アプローチには不満足で、まず信ずる対象や、理論、制度、政策等の真理性と誤謬性について、そして又それ等の正邪を正確に審査し決定できる「標準」を求めることを勧告した。従って、墨子の主張するところは、実用性と効用性の価値にあって、なにごとでも道義の向上に資するものは恒常化し、
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道義の向上に結果しないものは恒常化する要はないとした。要するに、結果として実現される目的の如何に注意し、それに導く判断や行為決定に気を配ることによって、その価値や原理の効用性を唯一の標準としたのであった。墨子の学派は、行為の動機として努力を必要とする結果に関する展望と予測に則った動機を最も重要と見た。若し儒学者の伝統を言語学的方法論とみれば、墨子の学風の伝統は、論理学的方法論と見なすことが出来ると言えるのである。
上記に明らかなように、二者の相違した方法論について、哲学上如何なる相互補助が成立しているものであろうか。胡適博士は次のように解説する。[75] 論理的な見地より見れば、孔子の貢献するところは、事物や行為を分類する索引と成りうる暫定的な名称の発見であるが、孔子や儒者達は、名称の分類や索引が、もし其の指示する実体を欠く時は、名称はすべて空虚となるか無意味となることを理解出来なかったと言う。如何に複雑で厳密な制度的関係を観念的に構築しても、もしそれらの観念や概念の対象と成る実体が無い時には、すべて砂上の楼閣たらざるを得ない。この欠陥にたいして、墨子やその弟子達は、言語や命題によって表示される、客観主体としての個の実体性を言語使用上不可欠な条件としたことにあったとする。哲学に従事する我々にとって、孔子達の言葉の原意を発見する努力は失望であり、よし何か発見したとしても、語源追求意識を納得させる以上の何ものでも無い。もしまた厳密な語源的アプローチを放棄するならば、任意の意味を観念上の対象に理想としてとりつけること以外ないこととなり、復亦砂上の楼閣の結果とならざるをえない。
胡適博士によれば、儒者達が無責任に空虚な名称を一方的に重要視し主張することに対して、墨子の学派は、名称や述語の言語表象について主体的実体が不可欠であるとする学説で貢献したのだと言う。即ち、知識は単に名称乃至普遍について学ぶのではなく、これら名称や普遍の対象としての箇を実際生活に利用する実用性と、行為の向上に効果あらしめる効用性とを学ぶのである。判断は其の判断の結果として予想される事象の実現に関連してなされなければ成らない。即ち、人はなにかに名前をつけることができることではなく、その名称によって対象を選択することができることでなければならない。
孔子や儒学者達は、道義的敗退や、暴力的流血や、無意味な破壊を呆然として眺める一般民衆に、人権、すなわち、自由、正義、そして究極的には背後にある普遍法について、概念的名称や定義とは何かを学ぶことを主張し、多民俗、多文化、多宗教または他国民の邂逅によてって必要とされる、地球的社会乃至政治秩序の改革をはたすべく、理想的諸関係を念入りな制度として構築出来るように自己教育に専心すべきことを唱えた。これにたいして、墨子達は、此れのみではまだ不十分だとし、善良な政府機関と悪質な政府機関について十分審査し、善悪の分別が出来るようにならなければ成らないと主張する。そして名称と実体の関係について、実際の機関、事実、現象等について善悪を決定し、困難で疑問や懐疑をまぬかれぬ現況に対処しなければならないとする。[76] 以上両者の主張する所を聞き、それでは、墨子の学説は、如何なる方法論を有しているのかと問えば、それは、所謂墨子の論理学であり、その論理法則に従って、上記の多角的解決を見いだすことに外成らない。
墨子の論理学は中国の論理学としては唯一のもので、就中その間接推理法は印度論理とも共通するところが在り、古代ギリシャの論理学とも比肩出来る学的組織である。ここでは墨子の論理学は範囲をこえるものであるが、こころみにその間接推理法について、その定義を胡適博士の簡略な翻訳を引用し解説してみたい。
推理者はノートをとり現行中の一切の事象を観察し、多様な諸判断の関係秩序を求め、叙述すべき主体についてその修飾語によって彼の意味を構文で表現し、それについて、理由を述べる。この構文は前文で「故に」ではじまり、結論を例証(同)と反証(異)を提出することによって、正しいと証明するのである。[77]
例えば、印度論理で有名な例を採り、若し遠方の山に煙が見えた場合、推理者が「あの山は火事だ」と推理判断をするのであるが、彼は「煙りあれば火あり」の経験による普遍関係を理由に、「あの山には煙りがみえるから(故)」と前提し、原因と結果の理法を彼の山という箇の主体にあてはめて、「故にあの山は火事だ」と結論するのである。しかし、墨子の論理学は、この命題の例証として、台所の竈における煙りと火の恒常関係を「同」と指摘し、又反証としては、火と煙りの関係の水辺における皆無なことを「異」と指摘するのである。これは原因結果の両者が常に共存する箇々のケースと両者が同時に存在し得ない箇々のケースを相反するクラスとして陳述することによつて、現在推理している実体について結論が正しいことを立証するのである。上記の推理形式は墨子の論理学の基本であるが、驚く勿れ、この墨子の推論方法を支える論理構造は実に印度に於ける仏教論理の構造とも、且つ亦人間理性の論理構造とも共通するのである。
以上、中国古代における孔子と墨子の両学派の論理及び言語学的な相互補助の関係を紹介したのであるが、しかもなお両者の伝統は政治社会史上共存出来なかったにもかかわらず、両者の対立理念は常に時代を通じて統治者と被統治者との相互関係を朝和させ、治世安寧の実に貢献しなくてはならなかったのである。筆者は般若と慈悲の両理念が仏教的調和原理として作用してきたとみるのであるが、以下その原理に最も良く叶う簡潔な表現を『大品般若経』第二章から引用してみたい。
舎利弗が佛に尋ねて言う。如何様にして菩薩及び摩訶薩が般若波羅蜜を行ずべきでありましょうか?佛は舎利弗に答えられた。菩薩は、菩薩を見ず、「菩薩」の字を見ず、般若波羅蜜を見ず、亦我は般若波羅蜜を行ずるとも見ず、亦、我は般若波羅蜜を行ぜずとも見ない。何を以ての故に。菩薩も、菩薩の字も、その性は空なり、この空の理念において色蘊もなく、受想行識の諸蘊もなく、色を離れて亦空無く、受想行識を離れて亦空無し。色は即ち是空なり、空は即ち是色なり、受想行識は即ち是空なり、空は即ち是受想行識なり。何を以っての故に。舎利弗よ、但名字有るが故に、それを謂って菩提と為し、但名字有るが故に、それを謂って空と為す。所以は何ぞ。諸法の実性は、生無く滅無く、垢無く浄無きが故に、菩薩摩訶薩是くの如く行じ、亦生を見ず亦不滅を見ず、亦亦垢を見ず亦浄を見ず。何を以っての故に。
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名字は是れ因縁和合して法を作す、但分別し臆想し仮に名ずけて説く。是の故に、菩薩摩訶薩般若波羅蜜を行ずる時、一切の名字を見ず、見ざるが故に著せず。[78]
「般若波羅蜜」の智と行に関する上記の引用文は、釈尊の教説となされているが、元来一造経者が彼自身の理解した大乗仏教の宗教的基盤を解説したものであることは明白である。しかし、読者の中には、一切の般若経典が説くように、空性の理念の中心課題は究極的には人間苦を超越して涅槃を実現する道行を提示しているもので、一般世俗世間の政治的支配と被支配と言った対立の調停や調和がその中心課題ではないと言うかも知れない。しかし、墨子の学派が主張するように、如何なる体制下にあっても、一理論や一習慣、或は又一宗教乃至文化が史上出現し存続することができるためには、その実用性や効用性が不可欠の条件となる。後漢時代に始まる中国仏教は、五世紀を前後して、儒教や道教を教養として持つ新興仏教徒の指導者は、仏教史上の選択として般若経典の研鑽に努めた。鳩摩羅什はその要望に応え、401年後秦の姚興から長安に招聘されるや、十年間のうちに、般若経典の中枢と中観仏教の最要の論書を中国語に訳出することに成功したのであった。[79]
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その後二世紀、玄奘三蔵が訪印して梵文経典を通して印度仏教の理解に精通し、帰還の後遂に般若経典の総合的な翻訳を残すことになった。玄奘の『六百巻大般若経』は、731年に編纂された『大唐開元釈教目録』中、万巻を率いる最初の経典として記録されている。以降中世を通じてこの『大般若経』は、筆写、刻版にかかわらず、宋版、元版、明版、清版を通じて、仏教大蔵経の巻頭を飾ってきた。大唐の帝室以来、如何に般若経典が為政者乃至帝室の支持するものであったかが理解されるのである。
『般若心経』の起原は、般若の空性の理念と観音菩薩の慈悲行とが連結される時点を表出するのであるから、極めて重要である。『心経』の起源について、二者の推量仮定説が建てられている。第一には、梵文原典が印度で造られたものとして、龍樹が『大智度論』を書き上げた後、150年から250年の一世紀間中、そして288年支謙が『摩訶般若波羅蜜神呪』[80] として漢訳した原典が『心経』であったとする仮説と、第二には、ネパールで発見された梵文原典が若し一写本であった場合、この梵文経典は中国語の『心経』より梵語化され、それが印度大陸に逆輸入されたものとする仮説の二者がある。[81] この第二の仮説が建てられるものとすれば、『心経』の起源についてコンゼ博士の意見、
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即ち、350年頃中央アジアで成立したという仮説が、決め手になりうると思われる。[82]
玄奘の漢訳が大唐帝室の後援を背景として、『大般若経』と共に『般若心経』を最も効果的に普及させたものであるが、彼自身は『観音経』と『心経』との連係を推進したものではない。何故ならば、この連係は彼がそれを漢訳する以前既に展開し始めていたからである。『般若心経』と『法華経第二十五章』の抜粋としての『観音経』とを、天下に普及させる上でもっとも貢献したのは、天台宗の智顗(538-597)[83] のごとく、龍樹の中観論法やその観法の行証に専注した実践家達であった。例えば、天台大師が593年に「観音玄義」を執筆したことは良く知られているが、[84] その後、更に「観音義疏」[85] を書き上げ、そして又、『法華経』の「観音普門品」の注釈を短編であるが書き上げている。[86] これらの著作が実際に西紀最初の一千年の中場以降、観音信仰の運動として大陸に普及していった原因とも言うべきものである。玄奘の『心経』が更に普及していった裏には、初期唐時代にこの連合された文化勢力が民衆をして動機づけ、大陸全体に及ぶ唐の治世に貢献したものと思われる。
最後、言語現象の裏面に絶対的な原理が潜み、其れ自体は言語を通して表出されるという思考が、史上宗教現象の説明によく理論を提供して来た。インド哲学での梵我思想によれば、この究極的実在は現象界より超越した永遠の原理であるが、言語的用法表現は人間性の限界に留まり、その使用環境に由来するとする。ロケシュ.チャンドラ氏は、観世音はブラフマ神の権化であると理論ずけることによって、
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観音信仰の基盤をヒンドウ-教的実在者としての梵我思想に帰しているが、中国における観音信仰の基盤は、筆者が強調したごとく、般若の空性であり実在者を否定する無我の理法である。釈尊の叡智は一切は縁起により無我であり、空である。この真理は中観仏教の代表者龍樹により弁証法的に敷衍された縁起法であり、止観の行法によって観見されるものであった。この実践法は天台の止観に展開して行く。ここに印度的観音信仰と中国の観音信仰とでは、文化的にも宗教的にも、重大な相違があったことが分かる。龍樹が説き、天台大師が敷衍した中観論法並びに止観の行法は、究極的には真俗二諦の融合にあり、現象と本体、言語認識に関する相対と絶対の二元性の超克にあった。羅什並びに玄奘により訳された『般若心経』は、一切の現象界や俗世間における矛盾撞着、対立抗争の和解調停の原理を説示するものと理解されて来た所以で有る。
《般若心經》除了玄奘三藏所譯之外,還有由羅什三藏所譯的漢譯較不為一般人所知。二者漢譯經典的內容,不論是在所使用的語詞、構句以及表現方式各方面,一致的程度令人驚嘆。但由於經典的說示者,分別採用觀世音菩薩與觀自在菩薩這兩種不同的譯名,可以確定在時代背景上存在著舊譯與新譯之別。觀音的崇拜信仰不限遠東諸國的佛教,甚至連一部分的越南佛教也能找到,被視為具有漢文化的影響力,可見凡是大乘佛教宗派活動的地區,也必然同時存在有觀音信仰。
這種宗教運動,可以認為是持般若經典所宣說的般若皆空的理念和《法華經》第二十五品所強調的菩薩的愛與慈悲的實踐,二者統合為一的宗教性做為基礎。曾經,由本《中華佛學學報》第13期卷下,以 “Bmddha's Love and Human Love”(佛陀之愛與人類之愛)的題目發表過,般若的理念和菩薩的慈悲之間關係的考證,故在本小論文中,我想要針對兩者的宗教性未來如何透過中國佛教徒朝向形成泛文化影響力邁進來探討。亦即,佛教空性的理念,雖然在印度是透過印度教方面梵我的實在者的否定而展開,而邁向此「無我之空」的轉換,一般認為在中國的觀音信仰中最能明白清楚地觀察到。相對於印度教的護教學者,甚至把空觀批評為虛無論而言,為何在中國直到現在,空觀的理念與實動性,確實是一直始終持續存在於宗教文化的底層呢?在本小論文中,所應嘗試追求此根據的解答。
關鍵詞: 1.鳩摩羅什 2.玄奘 3.般若與空性 4.《心經》 5.《法華經》 6.觀世音與觀自在
(中文提要由楊德輝譯)
In addition to Hsüan-tsang's well-known translation of the Heart Sutra, there is a lesser known translation by Kumārajīva. There is a remarkably high degree of similarity in terminology, sentence structure, and all aspects of expression in these two translations. However, the name of the speaker varies in the two translations. In Kumārajīva's, it is the bodhisattva Guanshiyin 觀世音, and in Xuanzang's, it is Guanzizai 觀自在. The distinction between the "new" and "old" translations can be affirmed through these two variant Chinese translations of this name. Guanyin cults were not limited to East Asian Buddhism; they can even be found in Vietnamese Buddhism. This can be seen as the influence of Han Chinese culture. Clearly, in areas where Chinese Mahāyāna traditions were active, we can know that Guanyin cults would also exist.
It can be thought that the religiosity-formed by the union of emptiness found in the Prajñāpāramitā siitras with the realization of bodhisattva's love and compassion emphasized in the twenty-fifth chapter of the Lotus Sūutra-serves as the foundation [for the Guanyin cults]. My previous article, entitled "Buddha's Love and Human Love" (published in issue no. 13 of this journal), provides evidence of the relationship between the concept of prajfñā and the bodhisattva's compassion. Thus, in the present article, I would like to explore how the religiosity found in these two concepts can bring about the formation of a broad cultural influence in the context of Chinese Buddhists. Namely, it is through the Buddhist concept of emptiness, which developed from the negation of a Hinduistic inherently existing Self. This transition from non-self to emptiness generally considered to be most
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visible in Chinese Guanyin cults. Regarding apologetic scholars of Hinduism who go so far as to criticize the teaching of emptiness as nihilistic, the question may be asked, why is it that in China the teaching and implementation of emptiness can be found at the most basic level of religious culture, uninterrupted from ancient times to the present? In this article, I attempt to seek an authoritative elucidation.
關鍵詞: 1.Kumārajīva 2.Hsüan-tsang 3.prajfñā and emptiness (śūnyatā) 4.Heart Sutra 5.Lotus Sūtra 6.Guanshiyin and Guanzizai
(English abstract translated by Eric Goodell)
[1] 『大般若経』or Ta-pan-jo-ching,『大般若波羅蜜多経』or (Ta-pan-jo-po-lo-mi-to-ching, 600 fascicles) Taishō. 5-6-7, No. 220.
[2] The Pañca-viṃśatisāhasrikā-prajñāpāramitā-sūtra or the Larger Prajñāpāramitā Sūtra (Ta-pin-pan-jo-ching,『大品般若経』) that consists of 25,000 Verses (ślokas). Conze's analysis appeared in Journal of Royal Asiatic society, 1948, pp. 33-51.
[3] The Taishō New Tripitaka Edition has only two entries for Hsüan-tsang's translation of the Prajñāpāramitā Sūtra. The three volumes (No. 5 through 7) comprise (1) the Ta-pan-jo-po-lo-mi-to-ching〔『大般若波羅蜜多経』600 fasc.(No. 221-244)〕,and (2) the shortest Mo-ho-pan-jo-po-lo-mi-to-hsin-ching〔『摩訶般若波羅蜜多心経』1 fasc. (No. 252) included in the 8th volume along with other Prajñāpāramitā scriptures. Hsüan-tsang systematically collected all sixteen lecture sessions supposed to be held at four different localities (四処十六会). Thus, came to be the stupendous all-inclusive texual edition, which comprised the following three:
(1) the Śatasāhasrikā-prajñāpāramitā-sūtra (the 100,000 Śloka Prajñāpāramitā-sūtra『十万頌般若』) which corresponds to the initial and primary lecture session and to the initial 400 fascicles of the largest translation; |
(2) The Pañcaviṃśati-sāhasrikā-prajñāpāramitā-sūtra (the 25,000 Śloka Prajñāpāramitā-sūtra『二万五千頌般若』) which corresponds to the 2nd and 3rd lecture sessions (第二、三会) and to the 78 and 59 fascicles of the text respectively distinguished as the Ta-pin-pan-jo group (大品般若類), and |
(3) The Astāsāhasrikā-prajñāpāramitā-sūtra. (the 8000 Śloka Prajñāpāramitā-sūtra『八千頌般若』) which is equivalent to the 4th and 5th lecture sessions (第四、五会), and corresponds to the 18 and 10 fascicles of the Hsiao-pin-pan-jo group (小品般若類). |
These fascicles of the text altogether constitute a 94% of the 600 fascicles and nearly comprehend the whole Prajñā lecture sessions which are consistent among themselves. The Taishō edition vol. 8, which corresponds only to one fourth of the entire Prajñā Sūtra Section, comprises the Ta-pin-pan-jo group (大品般若) and Hsiao-pin-pan-jo group (小品般若) translated by different translators, such as, Kumārajīva (鳩摩羅什) of Yao-ch'in (姚秦) as foremost, Chih-ch'ien (支謙) of Wu (呉), Chih-lou-chia-ch'en (支婁迦讖) of the Late Han, Dharmaraksa (竺法護) and Wu-la-ch'a (無羅叉) of the Western Chin (西晋) as well as those texts which were regarded as independent outside the aformentioned sixteen lecture sessions. The Hridaya Sūtra was obviously treated as an independent scripture. How and why Hsüan-tsang regarded it as an independent text is a matter of dispute.
[4] Watanabe, Shōgo: “An introduction to the Theory on the Formation of the Prajñā-hridaya-sūtra” (「般若心経成立論序説」), Buddhist Studies (『仏教学』No. 31, July 1991), p. 42. Also Cf. Kajiwa, Kōun: A Study on the Formation of Mahāyāna Buddhism (『大乗仏教の成立史的研究』、Tokyō, Sankibō, 1981), p. 171; Fukui, Fumiyoshi: (『般若心経の歴史的研究』、Tokyō: Shunjūsha, 1987), p. 191.
[5] Mo-ho-pan-jo-po-lo-mi-ta-ming-chou-ching (『摩訶般若波羅蜜大明咒経』1 (Mahāprajñāpāramitā Wisdom Prayer Sūtra) fasc., Taishō 8 (No. 250), whose Sanskrit equivalent has been identified as Mahāprajñāpāramitā-mahā-vidyā-mantra-sūtra. I rendered the title literally in parallel with the compound terms; ‘ta' as “great”; ‘ming' as “wisdom,” “knowledge,” “illimuniation,” etc.; ‘chou' as “a prayer,” “a sacred formula” or “mystical verse,” or “a magical formula,” “incantation,” “charm,” “spell,” etc.
[6] More precisely analyzing the history of Chinese translations, There were five different periods: (1) ancient translations (古訳、A.D. 178-375), assembled in Tao-an's catalogue, (2) earlier olden translation (旧訳前期、376-501), marked by Kumārajīva and recorded in Sêng-yu's catalogue, (3) later olden translations (旧訳後期、502-617), recorded in the Catalogue of Various Scriptures (『衆経目録』) sponsored by dynastic edicts; (4) earlier new translations, (新訳前期、618-959), the period being initiated by Hsüan-tsang and (5) later new translations (新訳後期、960-1906). Cf. Ono, Genmyō: “History of transmission and translation of Buddhist Sūtras, Bussho Kaisetsu Daijiten (『仏書解説大辞典』), Additional vol., pp. 7-8.
[7] (1)『普遍智蔵般若波羅蜜多心経』re-translation by Fa-yueh (法月), T'ang dynasty [Taishō 8, (No. 252)], (2)『般若波羅蜜多心経』by Prajñā (般若) and Li-yen in 790 [ibid., (No. 253)], (3)『梵本般若波羅蜜多心経』by Prajñācakra (智慧輪) in 861 [ibid., (No. 254), (4)『般若波羅蜜多心経』by Dharmasiddhi ? (Fa-chêng, 法成) in 855 [ibid., (No. 255)], (5)『唐梵翻対字音般若波羅蜜多心経』by Amoghavajra (不空金剛) in 771-775 [ibid., (No. 256)], and (6)『仏説聖仏母小字本般若多心経』by Dānapāla (施護) in 980-? of Sung dynasty [ibid., (No. 257)] and『仏説帝釈般若波羅蜜多心経』[ibid., (No. 249)].
[8] 『出三蔵記集』(15 fasc.), Ch'u-san-ts'ang-chi-chi [Taishō 55, (No. 2145)] which integrated into itself an anterior catalogue: the Catalogue of the Various Scriptures Collected through Comprehensive Survey『綜理衆経目録』compiled by Tao-an (道安、314-385) on those Buddhist texts brought to China as well as translations, covering the period from the late Han dynasty down to the Eastern Chin (東晋、317-419). The edition Ch'u-san-ts'ang-chi-chi (『出三蔵記集』) was compiled during 510-518 by Sêng-yu (僧祐、445-518) of Liang (梁).
[9] This Hrdaya Sūtra in Sanskrit transliterated by Amoghavajra (不空), entitled『唐梵翻対字音般若波羅蜜多心経』[Taishō 8, (No. 256) discovered from the Tung-huang excavation, S 700]] is said to have been the text which Hsüan-tsang translated (梵本般若多心経者、大唐三蔵之所訳也). The introduction to this text begins, saying: “When the Tripitaka master stayed overnight at the Kung-hui-ssù in the province of I (益州) on the way to India, he happened to meet an ailing monk who tried to stop his journey by explaining how and why it was extremely difficult and dangerous to go through the regions. The monk then said: “I have ‘the essential truth of spirituality of the Buddhas of three periods' (三世諸仏心要法門). If you upholds this, you should be able to survive your journey for going and returning.” Thus, the master received it orally from that monk. In the next morning, he was already gone. In the Nālandā University, when the master was engaged in the act of circumambulating the Sūtra Hall as morning service, suddenly he saw the same monk, who then congratulated him for his successful journey and, upon letting him know that he was the Kuan-yin Bodhisattva, he disappeared into the early morning air (我是観音菩薩言訖冲空). Taishō op. cit., p. 851a.
[10] Kajio, Kōun:『大乗仏教の成立史的研究』山喜房, 1981, p. 171; and Fukui, Bunyū:『般若心経の歴史的研究』春秋社, 1987, p. 191ff, theorized that Hsüan-tsang obtained Kumārajīva's translation from a monk. Challenging this point of view, Shogo Watanabe points out that this may not be the case by referring to the process of gradual alteration of the story regarding the textual sourc of Hsüan-tsang's translation in the Catalogue of Buddhist Scriptures Newly Determined in the Era of Chen-hüan (『貞元新定釈経目録』, ca. the 9th century). Watanabe: 「般若心経成立序説──『摩訶般若波羅蜜大明咒経』と『大品般若経』との関係を中心として」[Journal of Buddhist Studies (『仏教学』No. 31, pp. 41-86) especially p. 80, subnote 1. According to Watanabe, the catalogue in question mentions that the Hṛidaya Sūtra that Hsüan-tsang received from a saintly monk during his journey to India was the text which Kumārajīva translated as the Great Prajñā Wisdom Sūtra (『大明咒経』).]
[11] Watanabe: op. cit., p. 8.
[12] 「普門品」means “multifarious manifestation” of the Kuan-shih-yin Bodhisattva.
[13] Hsüan-tsang asserts his translation of Kuan-tzu-tsai for Avalokiteśvara by saying: “Avalokiteśvara ought to be called in T'ang language as ‘Kuan-tzu-tsai’. Avalokita is kuan (観), īśvara is tzu-tsai (自在). His disciple (窺基、632-682) defended his master's rendering in his commentary on the Mahāprajñāpāramitā-hrdaya-sūtra [『般若心経幽賛』巻上、Taishō. 33 (No. 1710)]: In the olden translation, it was Kuang-shih-yin (光世音) or Kuan-shih-yin (観世音) or Kuan-shih-tzu-tsai (観世自在), which are all wrong. ‘Kuan' means illumining (照), namely, an insight that clarifies non-existence and existence (了空有) and ‘tzu-tsai' means the proficiency of doing things at one's will (従任).”
[14] The Lotus Sūtra has the former name in the Nepalese manuscript, while the latter name appears in the manuscript of the Pureland Sūtra. Despite the fact that both scriptures were most likely composed during the first century B.C., since it is difficult to determine exactly to what period each of the manuscripts belonged, we cannot decide which of the two names was original from the extant Sanskrit manuscripts.
[15] Bodhicaryāvatāra-śāstra by Śāntideva: an introductory to the practice of Mahāyāna and comprises high-sprited verses (Sanskrit, Chinese and tibetan versions as extant) together with, at least, nine commentaries and summaries.
[16] Lokesh Chandra: Cf. Chap. 2 in the Thousand Armed Avalokiteśvara. Delhi: Indira Gandhi National Center for Arts, 1988, esp. p. 20. According to this author, when these two names were being used in confusion, 'Avalokita' alone began to be used in later medieval India like the case of the Bodhicaryāvatāra by Śāntideva (ca. 650-750).
[17] The 25th Chap. of the Lotus Sūtra begins with the Buddha's reply to Aksayamati Bodhisattva regarding the meaning of the name Avalokitasvara. The reply points primarily to love and compassion as Kuan-yin's epithet, since he is ever alert to the imploring of all sufferers and, should they wholeheartedly chant his name, beseeching him for deliverance, he will come to help them be free from their suffering. He is endowed with the transcendent faculty to immediately perceive all voices and, in no time, come to the rescue of all callers. I shall herewith simplify and enumerate all circumstances of suffering noted in the Sūtra.
[18] Amitābha Buddha’s associate attendant (脇侍). According to Staël-Hostein's argument, the earliest occurrence of Chinese name kuan-shih-yin (観世音) is equivalent to “avalokita-īśvara” in the larger Sukhāvatī-vyūha-sūtra. Cf. “Avalokita and Apalokita,” Harvard Journal of Asiatic Studies, vol. 1 (1936), 350-362.] Cf. p. 351.
[19] Maitreya (Mi-lê, 弥勒): According to the Hsien-yu-ching [『賢愚経』13 fasc, Taishlō. 4, (No. 202)] or Avadāna Collection called Damamūka-nidāna-sūtra, No. 57, Fasc. Po-p'o-li-p'in (「波婆離品」) comprises a story of Maitreya who was a disciple of Śākyamuni. Born as a son of a minister of the king of Vārāṇasī, he became a student of a Brāhmaṇa scholar, but one day having attended Śākyamuni's lecture at the Gridhrakūta in Rājagṛiha, he became a disciple. Cf. Ta-chi-tu-lun (the 29th fasc.).
[20] Shan-ts'ai-t'ung-tzù (善財童子、Sudhana-śresthi-dāraka).
[21] Komine, Yahiko: “Re-examination of the Prajñā-hṛidaya-sūtra” (『般若心経再考』), Mikkyō-gaku Kenkyū (Study on Tantric Buddhism).
[22] Ta-p'in-pan-jo-ching (『大品般若経』or『摩訶般若波羅蜜経』), Pañcaviṃśati-sāhasrikā-prajñāpāramitā-sūtra (『二万五千頌』) translated by Kumārajīva, 402-412. Taishō. 8, (No. 223).
[23] Edward Conze: “Text, Sources, and Bibliography of the Prajñāpāramitā-hridaya,” Journal of Royal Asiatic Society. 1948, p. 47.
[24] Cf. Komine, op. cit., p. 123. (信成就, 時成就, 教主成就, 住所成就, 衆成就).
[25] Hsüan-tsang's Translation:観自在菩薩行深般若波羅蜜多時;Kumārajīva's Translation:観世音菩薩行深般若波羅蜜多時;Conze's Sanskrit Equivalents: Āryāvalokiteśvaro bodhisattvo, gambhīrāṃ prajñā-pāramitā-caryām caramāṇi vyavalokayati sma.
[26] Those post-Hsüan-tsang translations as referred to above all begin with “Thus have I heard” (如是我聞) and go on to state the circumstance. For instance, this is the introductory portion of Prajñācakra's translation [The Hridaya Sūtra in Taishō 8, (No. 254), p. 850a]:
Thus have I heard. At one time, the World-honored One stayed on the summit of Vulture's Peak together with a great assembly of Bhiksus and multiple Bodhisattvas who are superior beings. Abiding in the state of Samādhi, then, the World-honored One extended his introspection widely and deeply, finding among the assembly a Bodhisattva, “Kuan-shih-yin-tzutsai” by name. [Note that this translator combined with Kuan (観) both Svara (i.e., 世音) and Iśvara (自在) as 観世音自在]. While the Bodhisattva is engaged in the practice of profound Prajñāpāramitā introspection (行甚深般若波羅蜜多行時), he illumined and intuited that the nature of Five Skandhas in themselves was entirely devoid of reality, i.e., empty nature (照見五蘊自性皆空). No sooner the Elder Śāriputra received the World-honored One's suggestion, than he joined his both hands respectfully together and spoke to the great being, Bodhisattva Kuan-shih-yin-tzu-tsai: “Oh,Your holiness, when one wishes to practice profound Prajñāpāramitā introspection, how should one go about it, sir? Thus requested, the Bodhisattva began to propound, ... .”
Evam mayāśrutam. ekasmin samaye Bhagavān Rājagṛihe viharati sma Gridhrakūta-parvate, mahatā bhiksu-saṅghena sārdhaṃ mahatā ca bodhisattva-saṃghena. tena khalu punaḥ samayena Bhagavān gambhīrāvabhāsaṃ nāma dharmaparyāyaṃ bhāsitvā samādhim samāpannaḥ tena ca samayena Āryāvalokiteśvaro bodhisattvo mahāsattvo gambhīrāyāṃ prajñāpāramitāyāṃ caryāṃ caramāna evaṃ vyavalokayati sma: pañca skandhās tāṃśca svabhāva-śūnyān vyavalokayati. atha āyusmañc Chāriputra buddha-anubhāṣena Āryāvalokiteśvaro bodhisattvo mahāsattvo āyusmantaṃ Śāriputram etad avocat: Yaḥ kaścit kulaputro vā kuladuhitā vā asyām gambhīrāyāṃ prajñāpāramitāyāṃ caryāṃ cartukāmas tena kathaṃ śiksitavyam? evam ukta-Āryāvalokiteśvaro bodhisattvo mahāsattvo āyusmantaṃ Śāriputram etad avocat. yaḥ kaścid ārya putra kulaputro vā kuladuhitā vā asyāṃ gambhīrāyāṃ prajñāpāramitāyāṃ caryāṃ cartukāmas tenaivaṃ vyavalokitavyam.
In Kumārajīva's as well as Hsüan-tsang's Heart Sūtra, this introductory statement was simply dropped.
[27] Here, parallels are shown in diagram between Hsüan-tsang's translation and that of Kumārajīva along with the Sanskrit textual equivalents.
Hsüan-tsang's Tr.Kumārajīva's Tr.Conze's Sanskrit Equivalents
(Introduction)
観自在菩薩 観世音菩薩 Āryāvalokiteśvarobodhisattvo,
行深般若波羅蜜多 行深般若波羅蜜時 gambhīrāj prajñāpāramitā sma / caryām-caramāṇivyavalokayati
照見五蘊皆空 照見五陰空 pañcaskandhās tājś ca svabh paśyati sma/
[度一切苦厄] [度一切苦厄] [No Sanskrit equivalent for「度一切苦厄」]
[28] 「時衆中有一菩薩」
[29] 「即時具寿舎利子、承仏威神、合掌恭敬、白観世音自在菩薩摩訶薩言、聖者、若有欲学甚深般若波羅蜜多行、云何修行。」Taishō 8 (No. 254), p. 850a.
[30] 「行甚深般若波羅蜜多行時、応照見五蘊自性皆空、離諸苦厄。」Ibid.
[31] 「告具寿舎利子言...行甚深般若波羅蜜多行時、応照見五蘊自性皆空、離諸苦厄、」Ibid.
[32] Conze: op. cit., p. 42, note 6.
[33] There are a number of excellent research works to establish a synopsis betweeen the Hridaya Sūtra and Ta-p'in-pan-jo-ching (the 25,000 Śloka Sūtra) as well as between the Hridaya Sūtra and the 100,000 Śloka Prajñāpāramitā-sūtra. The following is the synopsis chart referring to these three textual sources. (Cf. Watanabe: op. cit., p. 45 ff):
Hsüan-tsang's Tr. Kumārajīva's Tr. Conze's Sanskrit Equivalents
(Śūnyatā of five Skandhas)
舎利弗、色空故無悩壊相
受空故無受相、想空故無知相
行空故無作相、識空故無覚相
何以故
(Śūnyatā of all) iha Śāriputra rūpaṃ śūnyat rūpaṃ
舎利子、色不異空 舎利弗、非色異空 rūpān na śūnyatāiva pthag rūpaṃ yad
空不異色、色即是空 非空異色、色即是空 rūpaṃ sā śūnyatā yā śūnyatāyā saṃ skāra
空即是色 空即是色 vijñānaṃ / evam eva vedan-saṃjñā-
受想行識亦復如是 受想行識亦如是 saṃskāra-vijñānaṃ / vijñānaṃ /
舎利子、是諸法空相 舎利弗、是諸法空相 iha Śāriputra saarva-dharmāḥ śūnyatā-
不生不滅、不垢不浄 不生不滅、不垢不浄 lakṣaṇā aniruddhā amalā anutpannā aniruddhā
不増不減 不増不減、 amalā avimalā anūnā apari-pūrāḥ /
是空法、非過去非未来非現在
(12 Āyatana)
是故空中、無色 是故空中、無色 tasmāc Chāriputra śūnyatāyāṃ narūpa
無受想行識 無受想行識 na vedanā na saṃjñā na saṃskārāḥna
無眼耳鼻舌身意 無眼耳鼻舌身意 vijñānaṃ, na caksuḥ-śrotra-ghrāṇa-
無色声香味触法 無色声香味触法 jihvā-kāya-manāṃsi na rūpa-śabda-gandha-rasa-sprastavya-dharmāḥ
(18 Dhātu)
無眼界、乃至無意識界 無眼界、乃至無意識界 na cakśur-dhātur yāvan na mano-vijñāna-dhātuḥ
(12 Causal Chains)
無無明、亦無無明尽 無無明、亦無無明尽 na-avidyā na-avidyā-ksayo yāvan
乃至無老死、亦無老死尽 乃至無老死、無老死尽 na jarāmarṇaṃ na jarāmaraṇaksayo
(4 Holy Truths)
無苦集滅道 無苦集滅道 na duḥkha-samudaya-morodha-mārgā
無智亦無得 無智亦無得 Na jñānaṃ na prāptir na / aprāptiḥ /
[34] Hsüan-tsang's Tr. Kumārajīva's Tr. Conze's Sanskrit Equivalents
The Merit of Prajñāpāramitā Text
以無所得故、菩提薩埵 以無所得故、菩薩 tasmāc Chāriputra aprāptitvād bodhi
依般若波羅蜜多故 依般若波羅蜜故 sattvo prajñāpāramitām āśritya
心無罣礙 心無罣礙 viharaty acittāvaraṇaḥ
無罣礙故、無有恐怖 無罣礙故、無有恐怖 cittāvarṇa-nāstitvād saṃyuktam na visamyuktam
遠離顛倒夢想 離一切顛倒夢想苦悩 atrasto viparyāsa-atikrānto,
究竟涅槃 究竟涅槃 nisthā-nirvaṇāḥ tryadhva-
三世諸仏 三世諸仏 vyavasthitāḥ sarva-budddhā
依般若波羅蜜多故 依般若波羅蜜故 prajñāpāramitām āśritya
得阿耨多羅三藐 得阿耨多羅三藐 anuttarāṃ samyaksambodhim
三菩提 三菩提 abhisambuddhāḥ
故知般若波羅蜜多 故知般若波羅蜜 Tasmād jñātavyaṃ prajñāpāramitā
是大神咒、是大明咒 是大明咒 Mahāmantro mahāvidyāmantro
是無上咒、是無等等咒 是無上咒、是無等等明咒‘nuttara-mantro' samasa-ma-mantraḥ
能除一切苦 能除一切苦 sarva-duḥkha-praśamanaḥ
真実不虚故 真実不虚故 satyam amithyatvāt.
説般若波羅蜜多咒 説般若波羅蜜咒 prajñāpāramitāyām
即説咒曰 即説咒曰 ukto mantraḥ
掲帝掲帝 般羅掲帝 竭帝竭帝 波羅竭帝 tadyathā oṃ gate gate pāragate
般羅僧掲帝、菩提僧莎訶 波羅僧竭帝、菩提僧莎呵 pārasaṃgate bodhi svāhā.
[35] 「無智亦無得」
[36] 「以無所得故」
[37] 「依般若波羅蜜多故心無罣礙」
[38] 「無有恐怖、離一切顛倒苦悩、究竟涅槃」
[39] 「三世諸仏依般若波羅蜜多故」
[40] 「得阿耨多羅三藐三菩提」
[41] mahāmantra(大神咒)
[42] mahā-vidyā-mantra (是大明咒)
[43] anuttara-mantra (是無上咒)
[44] asamasama-mantra (是無等等咒)
[45] sarva-duhkha-praśamanah satyam amithyātvāt (能除一切苦真実不虚)
[46] That this prayer verse (mantra) is not confined to the Hrdaya Sūtra has been voiced by a number of scholars. The verse is regarded to have been unique to any text of the Prajñāpāramitā as its praise or to the practice of Prajñāpāramitā introspection as means of concentration. Komine: loc. cit., pp. 175-176. loc. cit., p. 77; Watanabe: loc. cit., pp. 73-74.
[47] Watanabe: op. cit., pp. 69-71. See especially the chart of the synopses.
[48] 支婁迦讖
[49] The 8000 Śloka Prajñāpāramitā-sūtra (『道行般若経』)
[50] 『小品般若』
[51] 『大品般若』
[52] Avaivartika-bodhisattva, who reached the state of non-regression「不退転位の菩薩」(十地中の第二).
[53] Ibid., p. 72.
[54] Of the two extant commentaries of the Sutta-Nipāta, the Niddesa is the earlier one, ascribed to Sāriputta, a direct disciple of Śākyamuni, and the Paramatthajotikā is the later one ascribed to Buddhaghosa of the 5th century. Unlike the latter, the Nidessa is confined to some parts of the Sutta Nipāta.
[55] “The First Turning of the Wheel of the Law” (Dhamma-cakka-ppavattana-vaggo), the knowledge of four holy Truths.
[56] Conze: ibid., p. 46. Dhamma-cakka-ppavattana-vaggo: The Initial Turning of the Wheel of Dharma (『初転法輪経』).
[57] Ibid., 47-48.
[58] The bibliographical records suggest that there were six translations of the same text, but only three translations ascribed to Dharmaraksa (『正法華経』286), Kumārajīva (『妙法蓮華経』406), and Jñānagupta and Dharmagupta (『添品法蓮華経』601) are now extant. Nāgārjuna quotes this Sūtra, more often than any other scriptures, in his commentary Upadeśaśāstra (『大智度論』) of Mahāprajñāpāramitāsūtra [『大品般若経』(translated by Kumārajīva, A.D. 402-405)].
[59] The Hindu deity Śiva was assimilated to Buddhism and gave rise to the name Avalokiteśvara (avalokita-īśvara, the lord Avalokita), thereby allowing the emergence of the thousand-armed Bodhisattvas. Lokesh Chandra asserts that “this Avalokiteśvara sometimes appears as a Buddha and at other times as the Hindu deity Iśvara or Maheśvara (Śīva), without clear reason.” So came to being several types of Kuan-yin images that were linked to Hindu iconography, like those endowed with one thousand arms, thousand eyes, four faces, eleven faces, a horsehead, a fearless lion head, a blue neck, and so on.
[60] As Kuan-yin moved east, further new variations arose, including the white-robed Kuan-yin, Kuan-yin holding a willow leaf, Kuan-yin with a fishing basket, and the Kuan-yin of easy child-bearing. This last figure, holding a baby in her arm, was sometimes called “Maria Kannon” in Medieval Japan.
[61] 「本地垂跡」Here, Lokesh Chandra borrows Alicia Matsunaga's theory from her Buddhist Philosophy of Assimilation of the Honji-Suijaku Theory (The Historical Development): Tokyo: Sphia University, C.E. Tuttle, 1969. Chandra: op. cit., p. 42. Cf.
[62] Chandra: ibid., p.16.
[63] Martin Palmer and Jay Ramsay with Man-ho Kwok: Kuan Yin: Myths of the Chinese Goddess of Compassion. London: Thorsons, and Imprint of Harper-Collins Publishers, 1995; p. 19.
[64] Palmer and Ramsay: op. cit., p. 21. The authors suggest that among other reasons, popular Buddhism needed a female image to compete with the Taoists and their successful goddesses, such as Queen Mother of the West.
[65] Ibid., p. 40.
[66] Elena Schmidt: “The Little Known Binglingsi, Buddhist Caves,” The Art of Asia, vol. 27, No. 4, July-August 1997; pp. 132-137.
[67] In China, calling the Prajñāpāramitā Sūtras as “Mother of Buddhas” (仏母) began to be seen during the later half of the first millennium in association with Tantric texts. E.g.,『仏母大金曜孔雀明王経』3 fasc. tr. by Amoghavajra (705-774), the text concerned with Dhāranīs;『仏母出生三法蔵般若波羅蜜多経』equivalent to the 4th lecture assembly of Hsüan-tsang's『大般若経』of 600 fascicles, and parallel with the extant 8000 Śloka Prajñāpāramitā-sūtra [『道行般若経』10 fasc. tr. by Chih-lü-chia-chen, Late Han;『大明度経』6 fasc. by Chih-chien in Wu;『摩訶般若鈔経』5 fasc.;『小品般若波羅蜜経』25 fasc, by Kumārajīva;『仏母小字般若経』1 fasc. 1000;『仏母般若波羅蜜多円集要義釈論』(Ārya-prajñāpāramitā-saṃgraha-kārikā-vivarana, 4 fasc.) tr. by Dānapāla, 980, and so forth.
[68] 墨子 (ca. 480-390 B.C.), native of Lü (魯).
[69] The Confucian principle of gradation of love, decreasing with the remoteness of relationship.
[70] The idea of universal concern or love, loving others just as one's self. “Chien-ai” (兼愛) means “to love others just as one's self,” having as much regard for others, say, father, elder brother, lord, vassar, and so forth, as for one's self, having as much regard for other families as for one's own, and so on. The term signifies a principle that applies to all, thus it is translatable as “universal love.” Hu Shih (胡適): The Development of the Logical Method in Ancient China, Shang-hai: The Oriental Book Co., 1928. p. 65; Cf. A.C. Graham: The Later Mohist Logic and Science; Hong-kong: Chinese University Press, 1978; p. 12.
[71] A.C. Graham: The Later Mohist Logic and Science; Hong-kong: Chinese University Press, 1978; p. 66.
[72] San-lun-hsiang-i (『三論玄義』)、Taishō 45, (No. 1825; pp. 1-14), Esp. pp. 6-7 (upper column).「難曰。是有是無名為両是。非有非無名為両有。既堕是非。還同儒墨。答本非二是、故有双非。二是既亡双非亦息。故知非是亦復非非。」
[73] Hu Shih (胡適): The Development of the Logical Method in Ancient China, Shang-hai: The Oriental Book Co., 1928.
[74] Adhering to the three principles, the confucian scholars furnished the society with an elaborate and rigid system of ideal relationship (li, 理), in the following centuries in terms of (1) teaching the judicious use of the written word as exemplified in the Chun-Chiu, and (2) editing and codifying elaborate customs, moral precepts, rituals, ceremonies, etc. into a system of propriety (li, 禮).
[75] Ibid., pp. 48-50.
[76] Ibid., and also Graham, op. cit., p. 40. Graham especially calls attention to the Mohist introduction of the ‘tzu' (辞) or “speech, sentence or proposition” for the first time distinguished from the name. He states: The distinction, grammatically less marked in Chinese than in Indo-Europiean languages, seems to have attracted attention only after it was noticed that “knowing is different from having a pictorial idea,” and with this discovery, the Mohist's attention shifts to the similarities and differences, not between objects or names, but between the propositions by which we describe.
[77] Hu Shih: ibid., p. 93; Also Cf. Graham's above note and its follow-up, ibid., p. 40.
[78] 「舎利弗白仏言。菩薩摩訶薩云何応行般若波羅蜜。佛告舍利佛、菩薩摩訶薩行深般若波羅蜜時、不見菩薩不見菩薩字、不見般若波羅蜜、亦不見我行般若波羅蜜、亦、不見我不行般若波羅蜜。何以故。菩薩菩薩字性空、空中無色無受想行識、離色亦無空、離受想行識亦無空。色即是空空即是色、受想行識即是空、空即是識。何以故。舎利弗、但有名字故謂為菩提、但有名字故謂為菩薩、但有名字故謂為空。所以者何。諸法実性、無生無滅無垢無浄故、菩薩摩訶薩如是行、亦不見生亦不見滅、亦不見垢亦不見浄。何以故。名字是因縁和合作法、但分別憶想仮名説。是故菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時、不見一切名字、不見故不著。」『般若波羅蜜経』27 fasc. tr. by Kumārajīva: Taishō. vol. 8, (No. 223) p. 221 b-c.
[79] When Kumārajīva was invited to Chang-an by Yao-hsing (姚興) of Late Ch'in (後秦) in 401 religious counselor, he carried out his work of translation under Yao-hsing's governmental patronage. He started with the Twenty-five Thousand Śloka Prajñāpāramitā-sūtra not only by editorially examining a previous Chinese translation of the same text, but also newly consulting Nāgārjuna's voluminous commentary Mahāprajñā-pāramitôpadeśa-śāstra. Thus, when he completed the Ta-p'in-pan-jo-ching (『大品般若経』), he also simultaneously brought forth the Ta-chih-tu-lun (『大智度論』) as his translation by the year 404. Importantly, his next step was to translate the Saddharmapuṇḍarīka-sūtra, known as Lotus Sūtra, and completed it in the year of 406. In the same year, he also completed the Vimalakīrti-nirdeśa-śāstra. Kumārajīva's productivity seems to have been in full throttle in the year 408 (弘始十年) as he completed the Eight Thousand Śloka Prajñāpāramitā-sūtra known as Hsiao-p'in-pan-jo-ching (『小品般若経』), and in the following year, both of the Madhyamaka-kārikā-śāstra, (『中観論頌』) and Dvādaśa-mukha-śāstra (『十二門論』) ascribed to Nāgārjuna. It was fortunate for the subsequent history of Chinese Buddhism that Kumārajīva successfully tranlated the major Prajñāpāramitā texts and some essential Madyamaka dialectical texts within a single decade.
[80] Mahāprajñāpāramitā Dhāraṇī(?) (『摩訶般若波羅蜜神咒』)ascribed to Chih-ch'ien (支謙) and recorded as lost in one of the early catalogues.
[81] McRae holds that Kumārajīva's『大明咒経』may have been finalized after Hsüan-tsang's『般若心経』came. But from the point of view of the linkage of Kuan-yin and Prajñāpāramitā, I cannot follow his view. Cf. J.R. McRae: Ch'an Commentaries on the Heart Sūtra: Preliminary Inferences on the Permutation of Chinese Buddhism, Journal of International Association of Buddhist Studies, vol. 11, no. 2, 1988, pp. 87-115.
[82] Cf. E. Conze: The Prajñāpāramitā Literature, The Reiyukai, 1978, p. 13. Watanabe seems to have sided with Conze's hypothesis of the textual origin, although he is critical toward Conze's flaw of substantiation. Watanabe: loc. cit., p. 80, and Note 44 in p. 86.
[83] Chih-i (538-597) systematized the T'ien-t'ai Classification of Buddhist Dcotrines known as “Fivefold Periods and Eight Teachings” (「天台五時八教教判」) on the basis of the Lotus Sūtra and Nirvāna Sūtra (Ni-p'an-ching,『涅槃経』).
[84] Kuan-shih-yin-hsüan-i (the Profound Meaning of Lotsu Sūtra)『観音玄義』2 fasc), Taishō. 34 ( No. 1726).
[85] Kuan-yin-i-shu or the Profound Meaning of Kuan-yin and its commentary, (『観音義疏』2 fasc.), Taishō. 34 (No. 1728).
[86] P'u-mên-p'in-su,『普門品疏』,Taishō. 34 (No. 1728).